第5話 冬の岸辺へ
安ホテルの部屋は、四畳半ほどの狭さに、くたびれた机とシングルベッドが置かれているだけだった。窓の外には、高速道路の高架と、遠くにまたたく赤い航空障害灯。エアコンの低い唸りだけが、時の流れを測るかのように一定のリズムで響いていた。
荷は最小限にまとめてある。旅券も航空券も手配済み。
あとは三日後に、この部屋を出て空港へ向かうだけ——そう思うと、心にかすかな隙間ができる。
その隙間を埋めるように、近くのコンビニで買った缶ビールを開ける。冷えた苦味が喉を過ぎ、わずかに緊張が解けた。
照明を落とし、ベッドに身を沈める。天井の白い板目が視界から遠のき、意識はゆっくりと暗がりへ溶けていった——。
***
潮の匂いがする。
気づけば、ケープタウンの港に立っていた。
薄曇りの空の下、海面は鈍く光り、背後にテーブルマウンテンが影のようにそびえている。
その岸辺に、栞がいた。
十五年前と変わらぬ姿で、長い黒髪を風に揺らし、笑みを浮かべている。
だが、その瞳は底知れぬ冷たさを湛え、まるで深い井戸を覗き込むようだった。
「……栞?」
呼びかけると、彼女は静かに歩み寄ってきた。距離が縮まるたび、肌の輪郭が淡く揺らぎ、霞のように形を失っていく。
至近まで来たその瞬間、彼女は首筋に顔を寄せた。
唇が触れた——冷たい。血が凍るような感覚が背筋を駆け上がる。
それは、昨日あの警察官に吹き飛ばされる寸前、首筋に走ったあの悪寒と同じ……いや、それ以上に深く、重く、抜け出せぬ闇に沈められるようだった。
——黒き口づけ。
その言葉が、なぜか胸の奥でひとりでに形を成す。
唇が離れると、栞は微笑みを残したまま、白い霧となって港の空へ溶けていった。
目を開けると、ホテルの天井があった。
窓の外では、深夜の高速を走るトラックの唸りが遠くに響く。心臓はまだ早鐘を打っていた。
枕元の時計は午前二時。額の汗を拭いながら、篠森は深く息をつく。
——もし栞が生きていれば、もう四十を過ぎている。あの姿は、さすがにないな。
自嘲めいた思いが、夢の中の鮮烈な感覚をわずかに薄めた。
それでも、あの冷たさだけは、まぶたの裏に焼きついたままだった。
***
午前七時、篠森は無駄のない動きでホテルの狭い机に腰を下ろし、ノートパソコンを開いた。
夜の夢は、目覚めと同時に深く引き出しに押し込み、鍵をかけた。今は感傷に浸る暇などない。
旅券は手元にあり、航空券も確保済み。残るは現地での足と連絡網だ。
黒いカバンから書類封筒を取り出す。中には、ここ数日で掻き集めた情報が無造作に詰め込まれていた。
——ケープタウン。南アフリカ共和国の南端、二百万を超える人口を抱える港町。
現地は八月、南半球の冬。気温は十度前後で、日本の晩秋に似た肌寒さだが、海風が加われば体感はさらに冷える。
空は澄みやすく、テーブルマウンテンの稜線が街を見下ろす。観光地としては穏やかな顔を持つが、夜は別だ。港湾と旧市街を中心に治安は不安定で、失踪者も少なくない。
資料をめくる指が止まる。
——ノクターン。港近くにある高級クラブ街の呼び名。正式名称ではない。
現地の記者によれば、この一帯は表向きは観光客向けの繁華街だが、裏社会の利権が複雑に絡み、住人ですら夜は近寄らない。
篠森が追っている案件——そして栞の渡航先——とも、どうやら無縁ではなさそうだった。
画面を切り替え、航空路を確認する。
東京からケープタウンへの直行便はない。最短は成田からドバイまで十一時間、そこから南へ十時間強。総移動時間は二十四時間を超える。乗り継ぎ地での滞在も含めれば、ほぼ二日がかりだ。
空港から市街地へは車で三十分。港やクラブ街へはさらに南へ下ることになる。
もう一つの資料を開く。現地在住の古い伝手から受け取ったメールだ。
——冬のケープタウンは乾燥しており、夜は息が白くなる。昼間は穏やかでも、日没後は路地裏に近づくな。
街の中心から外れると、通りは急に暗く、足音すら吸い込まれる。
言外に、その暗がりで何が起きているのかを示唆していた。
篠森はメモを数行書き込み、紙束をひとまとめにして封筒へ戻す。
感情は切り離す。今は事実だけを積み上げ、動くための足場を固める時だ。
窓を開けると、湿気を帯びた夏の空気が流れ込んできた。
その重さとは対照的に、遠く南半球の冬は乾いた匂いを孕んでいる——そんな気がした。
三日目の朝、年配のフロント係が控えめに声をかけてきた。
「お客様、こちら、お連れ様からお預かりしておりました」
差し出されたのは、くたびれた茶封筒。宛名はなく、ただ「フロント経由で渡してほしい」とだけ頼まれたらしい。
部屋に戻り、封を切る。中には一枚の港湾地図と、短く走り書きされた文。
〈夜は港に近づくな。“ノクターン”の灯がともる辺りは特に〉
ノクターン——港湾地区の一角についた俗称だ。
昼間は倉庫や安酒場が並ぶだけの街並みだが、夜になると治安が急激に悪化する。
喧嘩や傷害沙汰は日常茶飯事、行方不明者も少なくない。地元の住人ですら足を踏み入れたがらない区域だ。
「ノクターンの灯」とは、夜にだけ灯される赤い街灯や古いネオンを指すという。
地元の港湾労働者からも「不用意に入れば戻れない」と警告された場所だった。
差出人は書かれていない。だが、この書き癖は覚えている。
十五年前、栞の足跡を追う中で、一度だけ接触した情報屋のものだ。
現地に根を張る人間で、顔も名前も明かさない主義——だが、こうして封筒が届いたということは、自分の滞在がもう知られているということでもある。
この三日間、襲撃はなかった。
だが、完全な自由ではなかった。
歩けば、視界の端に人影がよぎる。振り返れば誰もいない。
背筋に沿って冷たい視線が這う感覚だけが、確かに残っている。
それがただの思い過ごしであればどれほど楽か。
窓辺に地図を広げ、港周辺を確認する。
赤い線で囲われた一帯が、封筒の警告にある“灯のともる場所”だろう。
印のついた通りを頭に叩き込み、地図を荷物の中に滑り込ませる。
防寒具、黒のジャケット、記録類。必要なものはすでに揃えてある。
残るのは、ここを離れる日を待つだけだ。
—— 一日でも早く発たなければ。
この街に長居すれば、それだけ足跡が深く刻まれる。
どこかで誰かがそれを辿り、背後に立つ日が来るかもしれない。
その想像だけで、喉の奥がひやりと冷えた。
夕方、シャトルバスの予約を確認しにロビーへ降りる。
外の歩道は西日で赤く染まり、港から吹く風が肌を刺す。
その赤は、なぜか夢の中で栞が残した、あの冷たい感触のあとに見た色と重なった。
頭を振って、その連想を断ち切る。
明日の朝には、この空の下を離れる。
長い空路を越え、地球の反対側、冬の岸辺へ——。
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