あの青い空を、あの青い空気を、

さわみずのあん

Happy Hypoxia

 カシュっと音がした。

 空気がピンと張り詰める。




 レモン味の炭酸飲料のペットボトルを、

「明日、学校で必要なんでしょ」と、

 嫌悪露わに、母は蓋を開けた。

 家庭が厳しかったのか、

 家計が厳しかったのか、

 私はそれまで、炭酸飲料はおろか、

 ジュースすらも飲んだことがなかった。

 ガラスのコップに注がれ、

 はじける泡の数々。

 初めての香料と甘味料の匂いに、

 頭が、くらとした。

「黄色いろだね」と私が言うと、

「はやく飲めば」と母は言った。

 思い切り、グッと飲むと、

 炭酸が喉で爆発をして、

 私はむせて、吐き出してしまった。

「まだ、早かったわね」と母は、

 ペットボトルとコップを片付けようとする。

「飲める、飲めるよ」と言う私を、

 けんもほろろに拒絶して、

 ペットボトルを逆さまに、

 中の炭酸飲料は、ながしに流された。

 口の中にはベタベタと、

 嫌な甘さだけが残った。


 翌日の学校で、特別授業が行われた。

 ペットボトルロケットの工作だった。

 私は、うんと、かっこいいやつを作ろうと、

 ダンボールを何枚も重ねて、

 赤いガムテープで、ぐるぐる巻きにして、

 ペットボトルの底の方に、

 分厚く大きな、赤い翼を四つ付けた。

 向きが逆だったことに気づいたのは、

 ロケットの飛距離コンテストが、

 始まってから、すぐだった。

 ペットボトルロケットは、

 飲み口が噴射口であり、

 底の方を頭に飛んでいく。

 話を上の空で聞いていた私も悪いが、

 なんで誰も、何も言ってくれなかったのか。

 私の番が来た。

 先生は、

「これは良い、とても良い」と言った。

「みんな見てくれ、良い実験ができるよ」

 とクラスメイトを集めた。

 私はその予想外の言葉に、

 褒められた、と勘違いをした。

 発射準備で砕いた、発泡入浴剤は、

 昨日飲んだ、炭酸飲料の匂いがした。

 私のロケットは、

 クラスで一番飛ばなかった。

 ロケットを回収してきた私に、

 先生は、

 右手を大きく振りかぶった。

 平手打ちをされる、と私は身構えた。

 ぶん、と大きな音がする。

「ほら、みんなもやってみて」

 クラスメイトは、先生の真似をして、

 ぶん、ぶん、と平手打ちをする。

「今度は、こんなふうにやってみて」

 手を開いたまま、指を閉じて、

 刺すように、前に突き出す。

 どうだい、風の感じ方が違うだろう?

 先生は空気抵抗の話をされた。

 私が感じたのは、

 科学の残酷さと、

 美しさだった。




 私は意識が戻った、

 頭がはっきりとしてくる。

 ここは、火星だ。

 妄想や夢でなく、

 現実。

 子供の頃の夢を叶えた現実。

 カシュと音がした、

 ボンベのバルブが緩んでいたのだろうか、

 直後に爆発が起きた。

 辺りを見回す、ヘルメットの重さのせいか、

 頭がくらくらとする。

 二酸化炭素から酸素を作り出す、

 この施設は、

 炭素繊維の骨組みに、

 ビニールハウスのような、

 透明なシートに覆われていたはずだ。

 爆発で、ひしゃげた骨組みに、

 破れたシートが引っかかっていて、

 強風に煽られ、バタバタと音を発して、

 いや、これは幻聴か?

 感覚が、ひどく鈍い。

 現実が、とても遠くに感じる。

 夢の中で見た、子供の頃の記憶は、

 それほど幸せな記憶ではなかったはずだが、

 私は幸福感に満ち溢れていた。

 酸素ボンベの残量を見る。

 絶望的な状況だが、

 いやだからこそか、

 魂の浮遊感を感じる。

 私の魂は、

 この、火星の赤い大気に散っていくのだ。

 低酸素状態のためか、ひどく、快い。

 意識が、朦朧としてくる。




 風が強く吹いている。






 ああ、地球の、

 青い空気を、胸一杯吸いたい。








 カシュっと音がした。






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