第五話 再び闇の中へ


 そんな彼の母も、もう永遠に語ることはなくなった。

 彼とその幼い妹のマルゥは他に身寄りもない。この医師が国へ申請を出し、公的な施設に預けられることになった。今日はその出発の日だ。


「荷物はそれで全部なのかい?」


 医師は怪訝けげんそうに少年の足元を見た。そこにはさほど大きくもない古びたかばんが2つ。ただそれだけだ。家を引き払った後の荷物としてはあまりに少ない。


「はい」


 短い返事の後も彼はただ黙りこくっている。元々愛想のある子供ではなかった。

 そして今は全てを拒絶するような空気が彼を包み込んでいる。


「では車を持ってくるよ。玄関に出て待っていておくれ」


 医師はこれ以上彼の心に踏み込むことは諦め、足早に部屋を出た。

 全く懐こうともしないこの少年に、何故か彼はほっとしていた。情をかければ辛くなる。親のない子の行く末が幸せになる事などこの国ではまれだ。

 とはいえ、もうけなど考えずに生きてきたこの町医者に兄妹を引き受ける余裕などなかった。


 クロミアは医者の背を見送った後も、全く動こうとしなかった。いや、動けなかったのだ。

 見渡すのはがらんとした小さな部屋。

 クロミアを愛し、彼が愛した母。彼が守るべき唯一の存在であった母。彼が生まれ育ったこの家に、この街に、この星に、もう母はいない。

 

 それなのに、この先に一体何があるというのか。この街を出てどこへ行こうというのか。

 眩暈めまいがした。彼は思わず目を閉じる。途端に彼を静寂と闇が包み込む。どこか懐かしい囁きが、彼を更に深く静かな所へと引き寄せる。


———ああ、あの夢だ。


 今までずっと忘れていた夢を思い出す。心地よく、気怠いあの深い闇。唯一の安らぎをもたらすその深淵。


 光り輝くような白い姿の母は、少年にとってまさに光そのものだった。

 そしてそれが永遠に失われた今、自分が目指す場所はそこなのだ。そう気づいた時、彼は闇の中でようやく自分の目が開くのを感じた。

 

 それはじわじわと彼の体を、魂を侵食し同化していく。

 不思議なほどに満ち足りた気分だった。自分の体を流れる体液と同じものに浸り、満たされていく感覚。

 本来交わりえないものと一つになって、己が全となり全は無となる。そしていつの間にか、ただそこにある闇。クロミアは、彼の意識と魂の全てをその闇へと溶け込ませる。いつしか彼を感じる彼自身が暗く深い闇となり、僅かに残った塊がぷくりと泡を吐いて沈んだ。

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