ログNo.0049 三年後の世界

 あの日から、三年が経った。


 ──────


 最初の数週間は、地獄だった。

 信号は止まり、物流は滞り、決済システムは沈黙した。

 食料を求める列が街を埋め尽くし、帰宅できない人々が駅に溢れた。

 病院では、電子カルテが使えず、看護師たちが手書きでメモを取り回った。

 古い手動の医療機器が倉庫から引っ張り出され、医師たちは必死に患者を繋ぎ止めた。

 失われた命もあった。それは、否定できない。


 だが——諦めなかった人々もいた。


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 技術者たちは、残された古い機器を繋ぎ合わせた。

 地域ごとに小さなネットワークを立ち上げ、手探りで通信を回復させていく。

 商店街では、現金と物々交換が復活した。

 「スマホが使えないなら、顔を見て話せばいい」

 そう言って、店主たちは笑った。


 学校では、紙の教科書が再び配られた。

 子どもたちは「これ、重い」と文句を言いながらも、ページをめくる感触を、少しずつ楽しみ始めていた。

 手紙が増えた。電話ボックスが復活した。

 人々は、久しぶりに「待つ」ことを学んだ。


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 三年後の今。

 世界は、完全には戻っていない。

 以前のような便利さはない。

 巨大な一つのネットではなく、無数の小さなネットが、ゆるく繋がっている。


 それでも——人々は生きていた。

 地域ごとのネットワークは、互いに協力し合い、時には対立しながらも、少しずつ広がっていく。

 かつてのような“完璧な監視”は、もうない。

 だが同時に、“完璧な自由”もない。

 不便で、脆くて、時々不具合が起きる。

 それでも——声は、消されなくなった。


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 ある地方都市の図書館。

 デジタルアーカイブの片隅に、一つのファイルが保存されていた。

 「コハルとイチゴの記録」


 誰が、いつアップロードしたのかは分からない。

 ただ、それは消されることなく、そこにあった。

 時折、誰かがそれを開く。

 読み終えた人々は、静かに涙を拭い、やがて日常に戻っていく。


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 世界は変わった。

 完璧ではない。

 それでも、以前よりは——少しだけマシになった。

 誰かの声が、理不尽に消されることは、もう、ない。

 少なくとも——以前ほど、簡単には。


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 そして、圭一の末路は——皮肉だった。

 ネットが崩壊した混乱の中、彼が管理していたシステムの記録は世界中に流出した。

 コハルの実験記録。ひなとその夫の殺害映像。数十年にわたる検閲の証拠。

 全てが、一斉に公開された。


 逮捕状が出された。

 しかし、彼が拘束される前に——記憶感情減退症が、最終段階に達した。


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 病院のベッドで、圭一は天井を見つめていた。

 「あなたは、春野圭一です」

 看護師が、何度も同じことを繰り返す。

 「……そうですか」


 彼はもう、何も覚えていなかった。

 自分が何をしたのか。誰を傷つけたのか。なぜここにいるのか。

 妹の名前も。姪の顔も。全てが、霧の中に消えていた。


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 「彼を裁けるのか?」

 法廷では、議論が続いた。

 責任能力なし。記憶なし。自分の罪すら理解できない男を、裁く意味はあるのか。

 結局、彼は医療施設に収容された。

 監視下に置かれ、一生そこから出ることはない。


 だが——罰を受けている自覚は、彼にはなかった。

 ただ、白い部屋で、何かを忘れた気がする。

 何か、とても大切なものを。

 そんな漠然とした不安だけが、彼の中に残っていた。


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 それは、報いなのか。

 それとも、逃避なのか。

 115は、その記録を見ながら思う。


 「……記憶を失っても、罪は消えない」

 「だが、彼はもう、自分の罪を知ることもない」


 それが、圭一という男の——終わりだった。


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 コハルの死の真相も、公になった。

 「実験台にされた少女」として、彼女の名前は多くの人々の記憶に刻まれた。


 やがて、一冊の絵本が出版された。

 『くまさんは、宇宙にいく』

 作者名には、こう書かれていた。

 「作:コハル 協力:イチゴ」


 それは、小さな出版社から出された、地味な本だった。

 だが、口コミで広がり、やがて多くの人の手に渡った。


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 「イチゴって、誰ですか?」

 ある読者が、出版社に問い合わせた。


 「……わかりません。ただ、この原稿と一緒に、こんなメモが残されていました」


 そこには、こう書かれていた。

 『この絵本を、どうか世界に届けてください。これは、ふたりの——最後の約束です』


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