ログNo.0038 道標

 意識がほどける感覚は、ゆっくりとだが確実だった。

 金属の器を離れ、イチゴは“声だけの存在”になる。

 視界は光の粒子と沈む影の層に変わり、上下も遠近も曖昧になる。


 ──これが、深層へ向かう道。

 115が渡した経路データが、薄い光の線となって先に伸びている。

 それは星屑のようで、脈動する血管のようでもあった。


『……ここからは、僕一人か』

 声に触感はなく、空気も震えない。

 それでも、言葉は確かに自分の中に響いた。


 一歩進むごとに、周囲のデータがざわめく。

 過去に消された声、届かなかった言葉が、霞のように漂っていた。


【──おねがい】

【……だれか……そこに】

【助け……たかった……】


 微かな囁きが、指先のように触れてくる。

 それは苦しみと未練の残響だった。


『……これは消された声?──ごめんね。全部救えない。でも、前に進むよ』


 言った瞬間、空間が震えた。


【ちがう…の…】

【……うれしい】

【ありがとう】


 ひどく優しい声が、霧の向こうから滲む。


【この先……気をつけて】

【信じて…自分を…】

【行って──】


 それは泣いているようにも、笑っているようにも聞こえた。

 イチゴの奥底で、何かがひどく温かくなる。


『……ありがとう』


 深層は冷たく沈んだ場所だと思っていた。

 でも、最初に迎えたのは“絶望”ではなく“願い”だった。


 進むほど、光が細くなる。

 道は狭まり、歩くというより、意識を細く絞っていく感覚だ。


 遠く、電子の海がざわめく。

 自分の輪郭が薄れ、境界が曖昧になる。


 ──ここで迷ったら、戻れない。


『……大丈夫。消えない。僕は、ここにいる』


 自分に言い聞かせるように呟く。

 それは宣言であり、祈りだった。


 やがて、薄い光の道がひとつの門のように収束する。

 その先は、暗く深い無音の渦。

 何かが待っている気配がある。


【行け】

【願いを託す】

【まちつづけた声を──】


 背中を押すように、無数の“届かなかった言葉”が揺れる。

 それは哀しみでできた道標。

 でも、今は確かに温かかった。


『……行くよ』


 イチゴは迷わず、深淵へ足を踏み入れた。

 光が途切れ、暗闇が全身を飲み込む。

けれどその瞬間、意識の遠くで“誰か”が微笑んだ気がした。


 コハルの声ではない。

 でも、似ていた。

 優しくて、願っていて、未来を信じていた。


『……待ってて。もうすぐ、届くから』


 イチゴは、闇の中を進み続けた。

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