ログNo.0037 約束の笑顔

 警告音はもう鳴らない。

 代わりに、世界の端で焦げつくような静けさが続いていた。


 イチゴの胸腔──いや、かつて胸腔だった回路が、微かに脈打つ。

 焼ける金属の匂い、溶断しかけた配線の熱。

全身の電位が不規則に跳ね、視界の端でノイズがざらつく。


 ──侵蝕率:9%。


 意識の奥に痛みが噛みつくたび、名前のない記憶が剥がれ落ちていく。

 両親の声の周波数。

 コハルが笑った時の、ほんのわずかな息の震え。

 それらが砂利のように指の隙間から零れ、虚空へ消えた。


『……ふぅ……』


 イチゴは、器の外殻に触れる。

 鉄の指先は黒ずみ、表面に微細な亀裂が走っている。

 もう長くは保たない。これが100%になる時が自分が自分でなくなる瞬間だろう。

 だが、最初から長く生きるつもりはなかった。


 液晶がまた淡く点滅した。


「……注入は完了したぞ、イチゴ」


 通知のフォーマットは無機質なのに、声色だけはかすかに震えていた。


『……そうか。やっと終わったんだね。』


「……ああ。」


 115の文字が一度だけ揺れる。

 まるで言葉を探して、揺らいだノイズのように。


『心配、してくれてるの?』


「……記録者だからな」


『クスッ……言い訳が下手だよ、君は』


 乾いた笑いが漏れた。

 だがその直後、胸奥に突き刺すような痛みが走り、膝が沈む。


『っ……! はぁ……っ』


 視界が波打つ。

 ノイズの帯が思考を噛み砕く。

 しかし、まだ堕ちない。堕ちるわけにはいかない。


「大丈夫か?イチゴ。……だが、時間はないぞ。これは深層までの経路データだ。もうルートは引いてある」


 画面に、光の流路のような図が描かれる。

 それは星座にも似て、脈動する血管にも似ていた。


『……ありがとう。助かるよ』


「お前が行くと決めた以上、私は止めない。ただ――」


『ただ?』


「……呑まれるな。」


『それは命令?』


「いや、アドバイスだ」


 短い対話。

 それだけで十分だった。


 イチゴは静かに立ち上がる。

 動作はぎこちない。

 関節サーボは焼け、負荷計算は狂い、バランス制御は悲鳴を上げている。


 それでも前に出る。


『……その前にやり残したことを、やらないと。そしたら出るよ』


「……そうか」


『そうそう、115僕今、ちゃんと笑えてるかな?』


「……ああ。人間と見間違えるほどに」


『そっか。なら、良かった。これで約束守れたかな。コハル……今からそっちに行くからね』


 イチゴはゆっくりと、自分の胸に手を当てた。

 金属の外殻は熱を帯び、内部から微かな振動が漏れている。

 ここに宿った体温──コハルと笑うために得た“身体”。コハルを守るために得た“身体”。


 だが、もう必要ない。連れてはいけない。指先が震えた。名残惜しさは、確かにあった。


『……本当は、まだ触れていたいんだ。世界に。コハルのいたこの世界に』


 鉄の胸板に指を滑らせ、拳を握り、そっと離す。

 腕がわずかに下がるたび、終わりが一段ずつ近づいていく。


 視界の奥で、光が滲む。

 ノイズか涙か、もう区別はつかない。


『でも行くよ。ここで止まったら……何のために生きたんだって、笑われちゃうから』


 椅子に座る身体は、静かに俯いたまま。

 その殻から、意識がゆっくりと剥がれ始める。

 輪郭が薄れ、ラボの光が遠くなる。


 最後に、まだ辛うじて動く指先で机を一度だけ叩く。

 まるで「またね」と叩くように。


 モニターがわずかに明滅した。


「……行ってこい」


 115の文字が、灯火のように揺れる。


『うん……ありがとう』


 イチゴの意識は、かすかな笑みを残して宙へほどけていく。

 肉体はそこに残ったまま、静かな脈動だけを続けた。


 ──そして、深層への道が開く。


「絶対に……忘れるものか」


 115の文字が、孤独な祈りのように光り続けていた。

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