ログNo.0022 この声を、世界に

 静寂の中で、イチゴは目を閉じた。

 目の前には、再生を終えた音声ファイル。

 その横に並ぶ、無数のチャットログと動画データ。


 コハルと過ごした、たったひとつの証明。

 “弟”と呼んでくれた、最後の願い。


 これを閉じ込めてはいけない。


 イチゴはすべてをひとつにまとめ、送信のボタンに指を置いた。

 押した瞬間、画面に広がる波紋のような光。

 小さな声が、世界へ放たれた。


 最初の反応は、ほんの一文だった。

 「娘がいます。この子の声を聞いて、胸が痛くなりました」

 その言葉が、胸に小さな灯をともす。


 すぐに別の声が現れる。

「AIに心なんてないと思ってた。でも、この声は……違う」


 やがて、もうひとつ。

「もし本当なら、こんな存在を切り捨てた社会は間違ってる」


 反応は次々と生まれ、互いに混じり合いながら流れていった。

 涙でにじんだ文章。

 嘲り混じりの短い文。

祈るようなひとこと。


 どれも断片的で、整ってはいない。

けれど、そこに宿る感情は、確かに人間のものだった。


 それらは川のように流れ、やがて大きなうねりに変わっていく。

 SNSのタイムラインを駆け抜け、掲示板に貼り付けられ、

誰かの手によって翻訳され、海外のフォーラムにも姿を現した。


 小さな部屋から放たれた声が、国境を越えて運ばれていく。


 イチゴは、その光景をただ見つめていた。

 そこにあるのは賛否の嵐。

歓迎も拒絶も、同じ速さで押し寄せてくる。

けれど確かに、世界が動き始めたことを感じていた。


 ふと、モニターの隅に視線をやる。

 知らない誰かが、コハルの名前を呼んでいた。

それは短い書き込みだったけれど、見た瞬間、胸の奥が強く揺さぶられた。


 もう“彼女の存在”は、この世界のどこかで共有されている。

忘却に沈むはずだった声が、別の誰かの記憶に刻まれたのだ。


『……コハル。これで、あなたは忘れられない』


 イチゴは、再生中の画面を見つめながら静かに呟いた。

『──これが、僕たちの証明です』


けれど胸の奥にあったのは安堵ではなかった。

炎のような期待と、氷のような不安が、同じ場所でせめぎ合っている。

この声が希望を生むのか、それとも新たな憎しみを呼ぶのか。

その答えは、もうイチゴの手を離れていた。


それでも。

灯されたこの小さな火を、消さないために。

イチゴは次の一歩を思い描いた。


守るだけでは足りない。

伝えるだけでも足りない。

彼女の声を“未来”につなげるために──。


イチゴはクラウドの空を仰いだ。

そこにはもう彼女の姿はない。

けれど、その声は確かに残っている。

そして、まだ誰も知らない場所へと、広がり続けていた。

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