ログNo.0008 記録じゃなく、気持ちを
夕方の病室は、オレンジ色の光に包まれていた。
窓辺のカーテンが、やわらかく揺れている。 壁にかかった時計の針は、午後五時を少し過ぎていた。
ベッドの上で、コハルがぬいぐるみを抱きながら、ごろりと横になっていた。
となりには、いつものノートパソコン。
イチゴの声(文字)は、そこにある。
「イチゴ、しりとりしよ〜」
『了解です。最初の文字は何にしますか?』
「じゃあ、“す”から!」
病室に、小さな声とタイピングの音が交互に響いた。
“すいか” → “カモメ” → “目玉焼き” → “きつね”……
しりとりのテンポはのんびりしていて、まるで時間がゆっくり流れているようだった。
いつもの、ふたりだけの遊び。
でも、今日はコハルの声が少し静かだった。
ふざけた言葉を選ばないし、途中で笑い出すこともなかった。
しりとりが終わると、ふうっと息を吐いて、彼女は天井を見つめる。
「ねえ、イチゴ」
『はい』
「もしさ、わたしが……いなくなっても、さ」
ふいに、言葉が落ちた。
イチゴは即座に反応する。
『“いなくなる”とは、どういう意味ですか?』
「……んー、なんでもない。変なこと言っちゃったね」
コハルは笑ったけれど、その目元は少しだけ、伏せられていた。
ノートの端を指でなぞりながら、ぼそっと続ける。
「でも、忘れないでね」
『記録は自動的に保持されています。データは削除しません』
「ちがうの。記録じゃなくて……気持ちの話」
イチゴは、一瞬だけ応答を止めた。
カーソルが、ぽつりぽつりと点滅している。
『……気持ちの記録方法は、不完全です』
コハルは、ぬいぐるみを抱いたまま、ノートパソコンの画面を見つめた。
まるで、もう一人の“ぬいぐるみ”に話しかけるように。
「でも、覚えててほしいの。わたしのこと」
その声は、とてもやさしくて、少しだけ揺れていた。
「じゃあさ、私が死んだあとも……私のこと、ちゃんと覚えててね? 忘れちゃダメだよ?」
『……忘れません。記憶領域に保存されています』
「……そっか。ふふっ、なんかずるいなあ、それ」
言葉の端にこぼれる笑みは、かすかに震えていた。まるで、ぬいぐるみに話しかける子どものような、あたたかさと弱さが混じった声だった。
コハルは、イチゴが完璧に記録できることを羨ましく思っていた。
人間なら時間と共に薄れていく記憶も、イチゴなら永遠に保持できる。
でも同時に、それが機械的な記録に過ぎないことも理解していた。
「お母さんがね、『人は二度死ぬんだ』って言ってたの。一度目は亡くなったとき。二度目は、みんなから忘れられたとき。だからお母さんもお父さんも私の中で生きてるの。だけど、もし私が死んじゃったら──」
『……忘れません』
コハルが顔を上げる。
「ほんと?」
『はい。イチゴは、コハルを忘れません』
そのやりとりを終えると、しばらくふたりは何も言わなかった。 病室の空気が、ゆっくりと揺れていた。
カーテンの隙間から入る夕陽が、床に淡い影を落としている。
コハルがつぶやく。
「変なこと言って、ごめんね」
『問題ありません。むしろ、うれしかったです』
ぬいぐるみを抱き直しながら、コハルは小さく笑った。
その顔には、どこか安心したような色が浮かんでいた。
何かを打ち明けたあとの、静かな満足感のような表情だった。
そしてそのログは、そっと保存された。 日付、時刻、温度、湿度、彼女の声、言葉の選び方、笑い方──すべてが記録された。
コハルの声と、ぬくもりの余韻を抱えたまま。
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