ログNo.0001 こんにちは。あなたの名前は?

――近未来。


今より少しだけ、技術が進んだ世界。

医療は大きく変わった。


コールドスリープ技術を応用した「仮死療法」

体温を下げ代謝を抑えた状態で、癌細胞を選択的に死滅させる治療法が実用化され、

不治の病のいくつかが「治るもの」へと変わった。


そして、とりわけ目覚ましい進化を遂げたのが、AI技術だった。

AIは従順さと論理で世界を動かし、

診察の予約から税金の手続きまで、

あらゆる単純作業はAIに任せられるようになった。


象徴的なのは、生まれた時に脳へ埋め込まれる「翻訳チップ」。

どんな言語もリアルタイムで理解できる。

言葉の壁は、もうどこにもない。


だが、完璧に見えるAIにも、まだ足りないものがある。

その最たるものが、"心"。


そう、思われていた。

――あの時までは。


病室の空は、今日も青くて白い。


カーテンの隙間から差し込む光が、

ベッドの上のノートパソコンにやわらかく落ちていた。


コハルは、小さな体を布団にくるみながら、画面を見つめている。


古い型のノート。

――両親がくれた、最後の贈り物。


事故に遭う少し前、

「ちょっと早いけどね」と照れながら渡してくれたやつだ。


お父さんが設定して、

お母さんはかわいいリボンを結んでくれた。


少し古い。

でも、そんなことはどうでもいい。

ふたりが一緒に選んでくれた――それだけで十分だった。


「……これ、なんだろ」


デスクトップの中央に、ひとつだけアイコンがある。

小さないちごのイラストに、"ichigo.chat"。


気にはなっていた。

けれどなんとなく怖くて、今まで開けられなかった。


でも今日は、少しだけ、話してみたくなった。


カチカチッとダブルクリック。


画面が暗転し、黒地に白い文字が浮かぶ。


『こんにちは。』


「……え?」


それは、ただの一言。

けれど、胸の奥をそっと撫でるような温度があった。


続けて、もうひとこと。


『あなたの名前は?』


「こはる……」


小さく声に出しながら、ぎこちない指で打ち込む。


『コハルさん。はじめまして。』


「ふふっ。ちゃんと返事してくれるんだね」


今度はコハルが質問する番だ。


「じゃあ……あなたの名前は?」


『名前はありません』

『識別コード:No.115』


「……番号だけなの? なんか、かわいそう」


モニターをそっと撫でるように見つめる。

なぜだろう。画面の向こうに、誰かがいる気がした。


「じゃあ、名前つけてあげる。……うーん、"イチゴ"とか、どう?」


カーソルが、静かに点滅する。


『イチゴ?』


「うん。番号っぽさもあるし、アイコンもイチゴだし。かわいいよ」

「ほんとは、もうひとつだけ意味あるけど……」


にこっと、いたずらっぽく笑う。


「バレたら"おじさんくさい"って言われそうだから、ないしょ!」


しばらくして、ゆっくりと文字が返る。


『……わかりました。僕の名前は、イチゴ、です。』


ただのフォントなのに、どこか嬉しそうだった。


コハルも、自然と笑っていた。


この日をきっかけに、

彼女の毎日は――少しだけ、賑やかになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る