第一話 愛之殿堂の代理人

 いつも見慣れた帰り道。重たい体で夏の夕日が降り注ぐアスファルトを歩く。橙色の光に照らされるビルが街並みに建っている。少年の白シャツの色が汗で濃くなり、彼は思わずこの熱さに不満をつぶやいた。


「あつい……まじで今年のナツどうなってんだよ」

「たしかにそうですね。今年の夏は猛暑が続きそうです」

「は? だれ!?」


 どこから清々しい少女の声が届く。目線でそのみなもと辿たどると、小さな木製ベンチに人影が見えた。

 小さな体の少女が端正に座っている。微風にふらりと銀色の髪が揺れる。彼女は現代ビルと噛み合わない古式の桜色の和服を着ていて、表情に味がなく、深紅しんくの瞳に輝くまなざしがない。


「お初にお目にかかります。藍野景晶あいのけいしょうさま」


 藍野景晶――その名の持ち主は帰り道だった少年である。しかし彼女と今まで一度も出逢ったことはない。とうぜん名前を知ることもないはずだ。


「き、君……だれなの? 名前は?」

「お名前はありません。藍野さまがお好きな様に呼んでいただいても構いません」


 名が存在しない人とは。

 藍野がそう唖然あぜんと目の前の紅色の瞳を見つめると、少女は手を差し伸べた。


「私は『愛之殿堂あいのでんどう代理人だいりにん』です。突然で戸惑うかもしれませんが、藍野さまには遂行させていただく任務がございます」


 ――『愛之殿堂あいのでんどう

 その言葉は彼が幼いときに知った神聖な言葉だ。高校生になった今でも信じている。

 しかしそれは本当に存在するかはさておき、いざ声をかけられると藍野は当惑する。

 そもそも『任務』とは。


「私と共に代理人となる、という任務です。藍野さまには他人になってもらいます」

「他人に……なる?」


 彼女は差し伸べた手を藍野の肩にのせ、おもむろに薄紅の唇を開けた。


「『他人の人生』を旅してもらいます。そして彼らの人生にある贈り物を届けます。それが藍野さまの任務です」


 その贈り物は、と彼女は言葉を続ける。


「『愛之殿堂あいのでんどう』を届けることです」


 少女の変わらない無の表情が目の前に。


「あなたを……信じるべきなの? ていうかなんでこんな任務をぼくに託すの?」


 少女の正体も任務の真偽も、本来なら彼と無関係なことであるはず。


「それは……あ、いや失礼しました。後々お伝えします。先に向かいましょう」

「向かう……?」


 すると藍野の体が一気に力が入らなくなる。彼のまぶたが重く、意識が薄くなる。

 彼女は倒れていく体をあたたかく抱擁ほうようした。気のせいか少女の頬はかすかにバラ色に染まっていたように見えた。


 どれほど寝たかは不明。藍野の意識は休んで目覚める。

 彼は真っ暗な世界からまぶたを開けた。模糊もことした視界がゆっくりピントを合わせる。するとあの少女の顔面が鮮明せんめいに目に入った。

 朝日の心地よい陽光が小さな顔を照らし、赤い瞳と目が合う。風にふらりと吹かれる銀髪がきれいに舞い、ぷっくりとした薄紅の唇が微妙な笑みを浮かべる。藍野はその姿に息をのむ。いや、微笑みにしてはかなり硬くて不自然だ。


「おはようございます。藍野さま」

「ここは……どこ?」


 弱い声を発する少年はほんの少しの違和感を感じた。実際すぐに起き上がってあたりを見渡すと、どうも見慣れない風景が目に映る。

 暗褐色のレンガで建てられた住宅、さらに統一感のある旗が街並みに多く見られる。

 白、青、赤といった色が交わり、それがイギリス国旗だと藍野にはわかった。


「藍野さま。ここは英国イギリスです。これから他の人によそおってもらいます」

「違う、違う! なんでイギリスにいるんだよ!」

「大変失礼しました。ようこそ――『十九世紀のイギリス』へ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る