神奈川編:第8話

 第八話




 目の前には、跳ね回るスライムによって散々に荒らされた休憩室が広がっていた。

 机や椅子は転げ、ロッカーの扉はこじ開けられ、中身が無造作に床へと散らばっている。

「いやぁ、見事にめちゃくちゃっすね……」


 乱雑になったロッカーの中身をひとつひとつ確かめていくと、視線の先に小ぶりなリュックが見つかった。

 色褪せてはいたものの、子ども用らしい可愛らしい柄がうっすらと残っている。

「誰かの荷物っすかね……?」


 そっと手に取り、中を確認してみる。

 出てきたのは、子供用の着替えの一式と空になった水筒、そして可愛らしいデザインの筆記用具、封が開いた非常食。

「非常食はもうアウトっすね、カビてる……着替えも使えそうにないし、水筒は今んとこ必要ないっすかね」


 ふと、底に沈んでいた一冊のノートに目が止まる。

 手に取ってみると、表紙には拙いひらがなでこう書かれていた。


 にっきちょう

 いちねんにくみ かみしろあかね


「日記帳……? 小学生っすかね……」


 どうしてこんなものがスーパーの休憩室のロッカーに――そんな疑問を抱きつつも、ページをめくる。

 中には、鉛筆で綴られたつたない文字が並んでいた。


 2がつ8にち はれ

 きょうはみんなでゆうえんちにいきました

 どののりものもたのしかったです


 2がつ15にち はれ

 きょうはおとうさんとこうえんにいきました

 ボールあそびたのしかったです


 他愛もない、日常の記録がいくつも続く。

 けれど、それがある日を境に変化していく。


 4がつ9にち くもり

 きょうはみんなでびょういんにいきました

 ういるす?っていうののよぼうせっしゅをしました


 4がつ25にち あめ

 きょうはがっこうでかんせんしゃがでました

 なのであしたからがっこうがおやすみになりました

 ともだちとあそべないのがさびしいです


 6がつ18にち くもり

 おかあさんがかんせんしゃになりました

 わたしとおとうさんもびょういんのへやにおとまりになりました


 6がつ30にち はれ

 びょういんがかじになりました

 おとうさんがにげなさいっていったのでびょういんからにげてきました

 おとうさんはあとからくるっていったのにぜんぜんきてくれません


 7がつ3にち くもり

 どこにいけばいいかわからない

 おとうさんもこない

 へんないきものもいる こわい


 7がつ

 からだ へん

 いたい たすけ


「…………」


 日記はそこで終わっていた。


 ページの端には、滲んだ涙の痕のような染みがあった。

 このノートが、ここにあったということは――

 あの子は、どうなったのか。


 誰にも見られないように、そっとノートをリュックにしまい込んだ。

 顔はうつむいたまま、声は震えていないはずだ。


「……あたしが知るには、ちょっと遅すぎたっすね」


 次の目的地へ向かうその足取りが、ほんの少しだけ重くなるのを感じながら。


 雨音が屋根を叩き、空はすっかり灰色に沈んでいた。

 あたしは、従業員休憩室の片隅でじっとしていた。先ほどまで跳ね回っていた異形のスライムの死骸は、鳥除けネットに包まれたまま外へ放り出してある。今のところ、ここは安全と言っても差し支えない。


「……少しは、わかってきた気がするっすね」


 日記帳を手にしたまま、独り言をこぼす。

 それは小さな子供の筆跡で綴られた、数ページの記録だった。最初の数行は、家族と遊園地に行っただの、父親と公園に行っただの、平凡で幸せな日常が書かれていた。


 だが、それが徐々に崩れていく。

 ウイルスという単語、感染者の発生、病院、そして避難――

 最後にはまともに文章すら書けていない記録で終わっていた。


「……多分、この子も感染して……ここで、力尽きたんすね」


 だが、死体は見当たらなかった。荷物が残っていたことを考えれば、ここで死んだのは間違いない。ではその痕跡はどこに行ったのか。

 あたしの視線は、無意識にスライムの死骸が転がっていた方向へ向かう。


「アイツに、食われた……んすかね」


 声に出してみたところで、返事など返ってくるはずもない。

 だが、どこか釈然としない思いだけが、胸の奥に沈殿していた。


 あたしはため息をつき、日記帳をリュックに仕舞う。

 感傷に浸っても仕方ない。今は生き延びることが先決だ。


 雨は依然として降り続いていた。夕方が過ぎてもやむ気配はない。

 仕方なく、夜をここで過ごす決意をする。従業員休憩室は破損が少なく、ドアも施錠できるのがありがたい。


 あたしは室内を整理し、椅子と机を立て直す。

 スライムの体液や跳ね回った衝撃で散乱した物も、ある程度は片付けた。

 その後、携帯コンロに火を点け、お湯を沸かす。


「今日はレトルトカレーと白飯っす」


 リュックから取り出した真空パックのご飯を熱湯に入れ、温める。

 熱々のご飯にレトルトカレーをかけると、部屋の中にスパイスの香りがふわりと漂った。

 コメの一粒まで大切に食べ尽くし、お湯を冷ましてからゆっくり飲む。


「やっぱ、カレーは辛口っすね……身体の芯から温まるっす」


 あたしはふぅ、と吐息を漏らしながら、スプーンを置いた。

 食器やコンロを片付け、寝袋を広げる。

 念のため店の出入り口に鍵をかけ、戸締りを確認する。


「明日こそは……静岡に入りたいっすね」


 そう呟いたその瞬間には、まぶたが重くなっていた。

 雨の子守唄に包まれながら、あたしはゆっくりと意識を手放していった。




 朝日が差し込む室内で、あたしは眠気をこすりながら寝袋を片付けた。まだちょっとまぶたが重いけど、昨夜ぐっすり寝られたおかげで、体は軽い。


 窓の外を覗くと、昨日の大雨が嘘みたいに空は晴れ渡ってた。雲ひとつない快晴。こういう日の出発って、ちょっとだけ気分が上がる。


 リュックを開けて、保存食のビスケットを取り出す。ポリポリと食べ、水で喉を潤す。味気ないけど、もう慣れた。


 ベルトを腰に巻き直し、鉈を鞘に差し込む。次に皮手袋をはめ、安全靴の紐を締める。背中にリュックを背負って、最後にヘルメットを深くかぶった。


 店の入口に置いておいた自転車のスタンドを足で蹴り上げると、カチャリと金属音が響く。


「今日の目標は静岡入りっすね」


 小さく呟いて、ペダルを踏み込む。冷たい朝の空気が肌を撫でていく。こんなひんやりした風を感じるのは久しぶりな気がする。


 カレンダーも時計もないから、何月何日かはわかんない。でも――なんとなく、夏が終わって秋に差し掛かってる気がした。風の匂いが違う。


「そのうち冬服も準備しなきゃっすかね……」


 誰に聞かせるでもなく、あたしはぼそっと呟く。頼みの綱は自衛隊の駐屯地。あそこに冬服とか、防寒装備とか、残ってたらいいんだけど。


 まだ見ぬ静岡を目指して、あたしは再び国道を走り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る