第4話
「全部、“未放送”だ」
安藤が段ボールを机に置いた。箱は古く、ガムテープの端は乾いて反り返っている。
中にはVHS、ベータ、ミニDV、さらには半透明のスリーブに入った8ミリフィルムまで、時代も規格も揃わない媒体が層になって詰まっていた。
ラベルには赤いペンで「再生禁止」「取扱注意」「棚戻し厳禁」と、短い命令が並ぶ。麻子が覗き込み、息を呑んだ。
「……こんなに、あるんですね」
「捨てろって言われた時期もあったがな。ゴミ袋に入れようとして、どうしても手が止まった」
安藤はそう言って、机の角に腰をかけ、煙草の代わりに口に薄いミントキャンディを転がした。
亮介は手を伸ばし、上のほうにあった「1995」と書かれたVHSを取る。プラスチックのケースは四隅が丸くすり減り、留め具は少し遊びが出ていた。
「古いほうからいこう」
テープが再生機に飲み込まれ、カチリと軽い音を立てる。
モニターに砂嵐の粒が走り、その粒が雨のように薄れていった先に、薄黄色の壁紙と裸電球の光が浮かび上がる。
古い団地の廊下。壁紙はところどころ剥げ、セメントの地肌が露出している。天井の電球はゆらゆらと揺れ、光が呼吸するみたいに明滅した。
視界は低い位置で前進する。ズームでもパンでもない、首振りにも似た揺れ。
歩幅が不自然に狭く、足音がほとんど入らない。靴底ではなく、柔らかいソールか、あるいは靴を履いていない。
麻子がノートを開き、ペン先で紙を軽く叩いた。
「歩幅、平均四十センチ前後……子どもくらい。呼吸の音、かすかに拾ってます」
亮介はジョグシャトルを回し、コマ送りで揺れを追う。揺れには規則があった。
左、右、左、右──左に倒れる角度がほんのわずかに大きい。左足を出すときに、視界は一瞬だけ沈む。
「利き足は左だな。踏み出すときの沈み込みが左で大きい」
「撮ってる“目線”、低いですよね」麻子が言う。「成人男性の胸の高さより低い。子ども、もしくは座位に近い」
「手持ちにしては、手ブレの周期が綺麗すぎる」安藤がぼそりと挟む。「人間の頭の揺れに近い」
廊下の奥で、光が細く漏れている。
視界はそこに近づき、光が画面いっぱいに広がった瞬間、ぷつり、と映像は切れた。青い待機画面が戻り、編集室の空気の温度だけが少し下がった気がした。
「次、2008」
別のテープ。今度は夜の踏切。遮断機が降り、赤いランプが規則正しく点滅している。
雨ではないが、空気に湿りがあり、金属の匂いが画面から立ち上がるようだ。
視界は柵ぎりぎりまで近づき、列車の通過をじっと見つめる。
やがて列車が去り、警報が途切れた刹那、ふらりと線路へ足が入る。視界が一歩、二歩──また途切れた。
「息が白く見えた。冬場でしょうか」麻子。
「瞬きの間隔、平均二・八秒。ここで一・二秒に落ちる」亮介が指で画面を叩く。
「緊張時に短くなる。心拍と連動してる可能性」
「心拍?」安藤が眉を上げる。
「低い鼓動みたいなノイズが乗ってる。60〜70 bpmくらいの波。マイクの雑音にしては妙に安定してる」
麻子がメトロノームアプリを開き、画面に耳を寄せる。
編集室の空調の音と混じるが、確かに、画面の向こうで誰かの胸の奥が小さく、しかし一定に打っているような、微かな、湿った規則がある。
四半世紀前の映像にも、昨年の映像にも、その鼓動は同じテンポで刻まれている。
「機材じゃなく、“生き物”の側のリズムってことですか」
「そう考えると腑に落ちる部分が多い」
亮介は紙を取り出し、視界の揺れの軌道を手書きでなぞっていく。
左に倒れる角度、復帰する速度。コマごとに小さな矢印を描いて、一本の線に束ねる。
作業テーブルの上に、二十年分の「揺れの地図」が並んだ。線は不思議なほど似通っていた。
微細な差はあるが、骨格は同じ。歩いている人間が違っても、頭に埋め込まれた振り子が同じだとしか思えないほど、揺れの癖が一致している。
「同一人物の視界……いや、“同一の癖”を持った視界が、時代を跨いで現れてる」
麻子が別のテープを渡す。「2002年。廃工場のやつ、もう一度」
廃工場の映像が再び流れる。剥がれかけのペンキ、剥き出しの配管、床に落ちた鉄片。
視界は通路の左右を均等にスキャンするように動き、扉の前で立ち止まる。
そこで、ほんの一瞬だけ、レンズの右端に細い影が走った。細いフレームのような、黒い線。
「今の、戻して」
シャトルを巻き戻す。静止。画面右端に、眼鏡のフレームのような細い黒が、二コマだけ写っている。視界の動きに合わせて、その黒も微かに揺れる。
「眼鏡……?」麻子が首を傾げる。「でも、他の映像では見えない」
「ここだけ、だな。眼鏡をかけたり外したりできるのか、それとも撮影の瞬間だけ……」
亮介は自分の目頭を指で押した。
夜間編集の習慣で左目だけをよく擦る癖が、こういうときに出る。気づくと、映像の瞬きも左側からわずかに深く閉じ、開くタイミングが右より遅い。
「左目優位。瞬きが左から強い。これ、団地も踏切も廃工場も同じ」
安藤が黙って棚を探り、厚手の封筒を持ってきた。封筒の中には、古いスチルが数枚。1974年の港町、1979年の商店街の裏路地、1983年の郊外の空き地。
どれも未放送映像から切り出したという。スチルの角はすり減り、セピアがかっている。
「こっちは音がないからアテにならんが、ブレだけ見ると、全部“同じ癖”だ」
貼り出したスチルと、紙の「揺れの地図」が机から溢れて床まで流れた。
麻子はノートにチェックボックスを描き、映像ごとに特徴を記入していく。歩幅、小刻みな振り返り、左肩の落ち方、呼吸音の上がり方、瞬きの間隔、利き足。
チェックの列は奇妙なほど揃った。
「……ひとつ仮説を置くとして」麻子がペンを止め、亮介と安藤を見た。
「これ、カメラが映してるんじゃなく、“視界そのもの”が記録になってる可能性。媒体はただの受け皿で、編集機に繋いだ瞬間に“それ”が流れ込む」
「それは、何だ」
「わからない。“誰かの最期の視界”か、“誰かが見るはずだった視界”か」
「見るはずだった視界……」亮介が復唱する。
「つまり、死ぬ運命にあった人間の“最後の道筋”が、先に媒体に反射している」
安藤は深く椅子に沈み、天井の換気口を見上げた。
「最初にこれに気づいた頃のデスクがいた。名前はもう出せんが……そいつは、興味本位で連続して再生した。三日後に心筋梗塞で死んだ。医者は偶然だって言ったけどな」
編集室の空気が、その話を吸い込んでさらに重くなる。
蛍光灯のバラストがジジッ、と短く鳴り、画面の隅にノイズが一筋走った。窓の外で、遅い時間のバスが停留所を出る音がする。
ドアの隙間から、廊下を通る新聞の束の匂いが鼻を掠めた。
「少し休もう」安藤が言い、自販機の缶コーヒーを三本、ゴトンと落とした。
缶を手に持つと、金属の冷えが指の骨に沁みる。
道具室の長テーブルに腰を寄せ、三人は無言で一口だけ飲む。甘さは薄く、後味にわずかな鉄の味が残る。
亮介は缶のプルタブを指先でいじり、ふと、自分の左手の甲に古い火傷の跡があるのを思い出した。炎が噴く家、煙に消えた背中。あのときから、左手は冷たい缶を握ると少しだけ震える。
「実地検証をやってみたい」亮介が言った。
「同じ高さにカメラを固定して、俺たちの歩行でどれくらい揺れるか。比較が欲しい」
「やる価値はある」麻子。
「でも、局の中で勝手に撮ると怒られますね。明日、外で」
「今夜は解析を詰めよう。未放送のなかで、まだ事件になっていないものを特定する」
安藤がうなずき、昨年の日付のテープを二本、机に並べた。
一本は先ほど見た住宅街。もう一本は街の中心部、雑居ビルが立ち並ぶ通りの映像だ。看板がぎらぎらと点るネオン、高架下の柱のコンクリートに吸い込まれる車のライト。
視界は歩道の端を進み、道の切れ目で小刻みに左右を確かめる。歩く速度は一定、肩の上下動は小さい。歩き慣れた道の歩き方。
「どこだ、ここ」亮介が身を乗り出す。
「商店街の先、角に古い時計店がある通りに似てる」麻子が言った。「でも、看板が違う。撮影当時から店が入れ替わったか、あるいは――」
「未来の景色」
三人の声が重なる。映像のタイムコードは、来週の水曜日の日付を刻んでいた
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