第5話

「一旦、止めよう」安藤が早口で言った。


「これ以上は深夜の頭で進める話じゃない。鍵をかけて、今日はここまで」


麻子は名残惜しそうにモニターの電源を落とし、再生機からテープを抜いてケースに戻した。


ケースの端に、小さく、赤ペンで「再生禁止」とある。ラベルの筆跡は、見慣れたものだ。長年、この局のどこかで同じ手が書き続けてきたような、癖のない癖。


灯りを落とす直前、亮介はふと机の上の紙束に目を落とした。


自分が描いた「揺れの地図」――左に大きく倒れ、右に戻る癖が繰り返し並ぶ。


その線を指でなぞると、奇妙な違和感が腹の底に沈んだ。十年前、炎の夜に現場で走った自分の足の癖。


左足の外旋。階段を駆け下りるときの、左膝の抜け方。視界を揺らさないようにと身に付けた、無意識の補正。


「三浦さん?」


麻子の声で我に返る。照明が一段、二段と落ち、編集室はモニターの待機ランプだけを残して暗くなった。


ドアが閉まる直前、空調の音に紛れて、耳の奥で小さな音がした。息継ぎのような、誰かが口を開く前の、濡れた空気が喉を通る微かな音。


振り返っても、そこにはテープと機械と、青いランプの点だけがあった。


廊下に出ると、夜の局はまるで別の建物のように静まり返っていた。


窓ガラスに三人の影が重なり、亮介の影だけがほんの少し左に傾いている。


エレベーターの昇降音が遠くで鳴り、扉が開くと、冷蔵庫のような密閉された冷気が吹きつけた。


「明日、午前中にもう一度。検証の段取りも組みましょう」麻子が言う。


彼女の声は疲れているが、揺れてはいない。諦めない、と昔言った声に似た芯が残っている。


ロビーを抜けると、夜の街が湿り気を含んで口を開けた。


街路樹の葉は風に擦れ、信号機の赤がアスファルトを薄く染めている。タクシーが二台、アイドリングの音を低く鳴らして停まっていた。


亮介は一呼吸置き、胸の奥で小さな鼓動を数えた。編集室で拾った鼓動と、同じテンポで打っていた。


ポケットの中でスマホが震えた。


見知らぬ番号。画面には、局内回線ではない携帯番号が表示されている。亮介は一瞬迷い、親指を止めた。


出るかどうかを決める、その一拍。夜風が額の汗を冷やし、どこか遠くで救急車のサイレンが上がる。


明滅する赤い光は、この街のどこかで、まだ見ぬ視界を照らしているのかもしれない。



午後十時を回った駅前は、昼間の喧騒をすっかり抜き取り、冷えたアスファルトにネオンの色だけが滲んでいた。


商店街のシャッターは半分以上が下り、残っているのは遅くまでやっている居酒屋と、蛍光灯の青白い光を漏らすコンビニくらいだ。


雨は降っていないが、空気には水分が混じっており、鼻腔にわずかな鉄の匂いがまとわりつく。


街路樹の葉の裏で、ひそやかに水滴が生まれ、落ちては舗道に丸い痕を刻む。


亮介は肩掛けのカメラバッグを直し、麻子と安藤と並んで歩いた。


三人とも局支給の小型カメラを持ち、同じ高さにセッティングした雲台をそれぞれ腰のベルトに固定している。


揺れの軌跡を取るためだ。安藤は背中に三脚を背負い、無言で辺りの建物を見回している。


「……この辺り、ほぼ映像と同じですね」


麻子が声を落として言う。


彼女の視線の先には、昨夜解析した映像に映っていた古い時計店。


ショーウィンドウのガラスは薄く曇り、飾られた懐中時計が秒針を静かに送っている。だが看板の色は微妙に違っていた。


昨夜の映像では褪せた緑だったのが、今は新しく塗られたばかりの濃紺だ。


未来の景色に近づく過程のような、その違いが妙に現実感を削いでいた。


「じゃあ、スタート位置はここだ」


安藤が指示を出し、亮介がカメラの録画ボタンを押す。


映像の高さを再現するため、身をわずかにかがめ、歩幅を一定に保つ。


足音が夜気に吸われ、街灯の下を通るたび影が長く伸びる。


麻子も同じルートを別アングルで撮り、安藤がタブレットで二人の歩行パターンをリアルタイムで記録する。


「……やっぱり左足で沈み込みが出ますね」麻子の声が、無線で耳に届く。


亮介は自分でも分かっていた。


左膝をかばうようにわずかに外へ開く癖。歩幅の半分が微妙に狭くなる。


その感覚が、昨夜の「揺れの地図」と重なるのを意識的に避けようとしても、体が勝手に繰り返す。


通りの角を曲がった瞬間、ポケットのスマホが震えた。


画面には、局の編集室からのメッセージ通知。


「未放送映像 至急確認」。


安藤がタブレットを受け取り、映像ファイルを開く。画面に映し出されたのは、まさに今彼らが立っている通り。


赤い信号機の光、時計店、そして三人の背後をゆっくりと横切る黒い影。


「……これ、今夜の日付ですね」麻子の声がかすれる。


映像は、彼らと同じ高さの視界で進んでいく。


信号が青に変わり、渡る人影の中に、亮介がいた。


バッグの位置、肩の傾き、左足の沈み込み――すべてが寸分違わず、今この瞬間の彼と一致している。


亮介は息を呑んだ。映像の中の自分と、現実の視界の揺れが完全に同期している。


画面越しに見ているはずなのに、足元のアスファルトの質感や、左膝に走る小さな疼きまでが、自分の感覚と混ざり合っていく。


「三浦さん、止まって」麻子が呼びかける。


しかし、映像の中の亮介は止まらない。青信号のまま横断歩道を渡り、カメラに背を向けて闇の奥へと歩き去っていく。


現実の亮介も、気づけば横断歩道の白線を踏み出していた。


耳の奥で、昨夜編集室で聞いた鼓動が響く。六十、六十五、七十――速度を上げながら、映像と現実が重なったまま、彼をどこかへ誘っていく。


信号が赤に変わる直前、麻子が彼の腕を強く引いた。映像が途切れ、現実の街の音が一気に押し寄せる。息が浅く、膝の震えが止まらない。


「……今の、全部記録されてます」安藤が低く言った。


「でも、どうやって送られてきたのか、局のサーバーには痕跡がない」


亮介は何も言えなかった。足元には、雨粒のように細かい水滴が落ちている。見上げても、空は晴れているのに。


局の編集フロアは深夜零時を回っても、数台のモニターが淡く光を放っていた。


遠くでテープの巻き戻る機械音がして、それが静かな空間を細く切り裂く。


廊下の奥にはサーバールームの強化ドアがあり、通気孔から微かに温風が漏れている。


安藤がIDカードを通し、扉を開ける。機械群の低い唸りが胸骨を震わせるように響いた。銀色のラックに整然と並ぶ黒いサーバー。


その一つひとつに、青や緑のランプが規則正しく瞬く。


「ここに映像の転送ログが残ってるはずだ」

安藤は端末を操作し、最新のアクセス記録を呼び出した。だが、時刻も経路も空白。昨日の深夜から、未放送映像に関するトラフィックは一切検出されていない。


「つまり……外から送られてきた痕跡がない?」麻子が尋ねる。

「そうだ。送信者が不明ってレベルじゃない。“送信”そのものが存在しない」


亮介はサーバーの冷気を吸い込みながら、昨夜の横断歩道を思い出していた。あの映像は確かに自分の動きと同期していた。


それなのに、現実の自分は意識して動いていたはずだ。なのに足音、膝の沈み込み、視線の動きまでが完全に一致していた。


その時、亮介のスマホが震えた。差出人不明のメッセージ──添付ファイルは動画データ。


安藤と麻子がのぞき込む中、再生すると、古びた木造家屋の玄関先が映し出された。瓦屋根は剥がれ、板壁は雨に黒く染みている。


「……ここ、知ってます」麻子が息を呑む。


「十年前の、あの火事の現場ですよね」

亮介も覚えていた。まだ記者駆け出しの頃、炎上する家の前で泣き叫ぶ女性を撮った。


中には幼い姉妹が取り残され、翌朝、白いシートに包まれて運び出された。


映像は、その家の前で止まる。低い位置から玄関をじっと見上げ、やがて軒先の風鈴が揺れる音だけが響く。


次の瞬間、玄関がわずかに開き、中から誰かが覗いた。半分だけ見える顔、その瞳の奥に、夜の街灯が小さく反射している。


そこで映像は途切れた。


「送信元は……やっぱり不明だ」安藤が唇を噛む。


麻子は動画を巻き戻し、風鈴が揺れ始める直前のコマで止めた。


「……これ、揺れのリズム、昨夜と同じです」


亮介は言葉を失った。風鈴の紐が左右に振れるテンポが、自分の呼吸と妙に合っている。映像の視界の高さも、自分が膝をかがめた時の目線と一致していた。


サーバールームの奥で、冷却ファンが一斉に回転数を上げた。


亮介の耳には、その音が風鈴の音と重なって聞こえた。



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