第9話


第一部 誠の物語 第七章


 七月下旬――夏休みが始まったばかりの午後。


 音楽室には弦楽器特有の柔らかな音色が響き、譜面台に置かれた楽譜が窓から吹き込む風で揺れていた。深山高校音楽部は、高松での演奏旅行に向けた準備で慌ただしい日々を送っていた。


 「宮村ー、どこ見てんだよ。沙良ちゃんばっかり見てないで、ちゃんと弾けよ!」


 先輩の声が飛ぶ。音楽室全体に軽い笑い声が広がる中、誠は慌てて背筋を伸ばし、「すみません!」と答えた。耳まで赤くなっている自分が恥ずかしかった。


 (やべえ……完全にバレてるじゃん)


沙良もくすくす笑っている。その笑顔を見るだけで胸の奥が熱くなるのを感じた。


「次、百三十五小節目からもう一度合わせます!」


 先輩の指示が飛ぶと、部員たちはそれぞれ構えていた楽器を持ち直した。誠もチェロを構え直し、譜面に目を落とす。練習中は先輩たちの指示が絶対だ。それでも、その中で沙良と一緒に音楽を作り上げていく感覚は心地よかった。


 付き合い始めてから、もうすぐ二週間になる。誠は沙良との日々を思い返した。部活帰りに一緒に歩く時間が増え、放課後には自然と隣に座るようになった。沙良の明るさや気さくさのおかげで、誠も少しずつ自分を出せるようになってきた気がする。


 それはちょっと前のこと、廊下ですれ違ったときだった。誠は藤井彩香を見つけると小走りで近づいた。


 「藤井さん、 ちょっといい?」


 「どうしたの?」


 彩香は立ち止まり、不思議そうな顔で誠を見上げた。その表情にはいつもの穏やかさがあった。


 「実はさ……澤村さんと付き合うことになったんだ!」


 誠は少し息を切らしながらも、抑えきれない喜びをそのまま言葉にした。そのテンションの高さに彩香は一瞬驚いたようだったが、すぐにふわりと微笑んだ。


 「そっか……よかったね、本当に」


 その声は、自分のことのように柔らかく、温かかった。


 「ありがとう! いや、本当に藤井さんのおかげだよ。あの時背中押してくれたから——俺、勇気出せたんだ」


 誠は真剣な表情でそう言った。その真っ直ぐな感謝の言葉に、彩香は「ううん」と小さく首を振り、少しだけ視線を落とした。


 「私がしたことなんて、何もないよ」


 「いやいや、本当に感謝してる! ありがとう!」


 誠は満面の笑みでそう言うと、「じゃあまた部活で!」と言い残して去った。


 廊下を歩きながら、誠の胸には温かな気持ちが広がっていた。藤井さんは本当に優しいな、と思う。自分の喜びを素直に受け止めてくれたことが、どれだけありがたかったか。彼女の穏やかな微笑みが、心に焼き付いているようだった。


――


 「宮村くん、大丈夫?」


 沙良の声に現実へ引き戻される。音楽室でチェロを片付けながらぼんやりしていた自分に気づき、「あ、いや……大丈夫」と慌てて答えた。沙良は微笑みながら、「高松、楽しみだね」と言葉を続ける。その軽やかな声に励まされながら、誠も少しずつ期待感を抱いていく自分に気づいた。


 周囲では先輩たちや他の部員たちも楽しそうに話している。「高松ってうどん美味しいらしいよ」「観光する時間あるかな?」そんな声が飛び交う中、誠も少しだけ期待感を抱いていた。


 片付けを終えた後、沙良と並んで歩きながらふと口を開いた。


 「高松での演奏、うまくできるかな……?」


 「大丈夫だよ! 誠くん上手だし、自信持って!」


 沙良は明るい声でそう言いながら軽く肩を叩いた。その仕草に誠は少しだけ緊張が和らぐのを感じた。


 「でも……失敗したらどうしようとか考えちゃうんだよな」


 「失敗したっていいじゃん。それも含めて楽しい思い出になるよ」


 沙良の屈託のない笑顔と言葉に、誠は少しずつ前向きな気持ちになれた。沙良と一緒なら大丈夫だ、と誠は思った。そう思いながら歩く帰り道には、蝉時雨と遠くから聞こえる風鈴の音が響いていた。


 「……どうすればいいんだ⁈」 誠はベッドから立ち上がり、頭を抱えながら叫んだ。その声は静まり返った部屋に響き、壁に跳ね返るだけだった。午前一時。家中が寝静まっている時間帯だということを思い出し、慌てて口をつぐむ。


 ため息をつきながらタバコを一本取り出し、ライターで火をつける。一瞬だけ気持ちが軽くなるような気がしたが、その感覚もすぐに消え去った。吐き出した煙が空中でゆっくりと形を変えながら消えていく様子をぼんやりと眺めた。


 沙良の誕生日——それは高松旅行中に訪れる。


 付き合い始めてから初めて迎える彼女の誕生日。何か特別なものを贈りたい——そう思うほど、何を選べばいいのか分からなくなっていた。


 「アクセサリーとか……いや、それはまだ早いよな。でも……」


 一度頭に浮かんだネックレスという選択肢が消えない。沙良に似合うものを想像すると、それが一番しっくりくる気もする。しかし、一方で不安もあった。重すぎると思われたらどうしよう。そんな考えが頭をよぎる。「俺って、本当にセンスないよな……」ため息をつきながら椅子にもたれかかる。そのまま目を閉じても、沙良の笑顔が浮かんでくる。彼女が喜ぶ顔を想像するたびに、プレゼント選びの重要性が胸の奥で重くのしかかった。


 (沙良は、俺なんかが選んだもので、本当に喜んでくれるんだろうか。がっかりさせたくない。失望されたくない。……完璧な彼氏だって、思われたい)


 その思いが、誠の思考を完全に麻痺させていた。


 (失敗は許されない。絶対にだ)


 その強迫観念が、ぐるぐると頭を回り、やがて息苦しさに変わる。


 弾かれるように椅子から立ち上がると、誠の足は自室ではなく、一階のレッスン室へと向かっていた。防音扉を開けると、そこだけが別世界のように静まり返っている。誠はチェロをケースから取り出すと、深く息を吸い込み、バッハの無伴奏チェロ組曲を弾き始めた。


 一音一音が、絡まった思考を解きほぐしていく。この時間だけは、沙良のことも、自分の未熟さも、すべてを忘れられる。音楽は、彼にとって唯一の聖域であり、避難場所だった。しかし、一つのフレーズを弾き終えた瞬間、ふと沙良の顔が脳裏をよぎった。彼女が喜ぶ顔。失望した顔。そのイメージが、彼の指先を鈍らせる。完璧な演奏をしなければ。彼女にふさわしい自分でなければ。その強迫観念が、音楽の純粋さを濁らせていく。


 音程が、僅かに揺らぐ。弓の動きが、硬くなる。


 「……くそっ」


 音楽にさえ、救いを求められなくなっている。その事実が、彼をさらに追い詰めた。


 自室に戻った誠は、机の引き出しからタバコとライターを取り出した。窓際に座り込み、苛立ちをぶつけるように煙を深く吸い込む。


 (ダメだ、俺一人じゃ、もうどうしようもねえ)


 その時、ふと、頭の中で彩香の顔が浮かんだ。


 (そうだ……藤井さんだ。彼女なら、沙良の親友で、俺なんかよりずっと沙良のことを知っている。彼女に聞けば、「正解」を教えてくれるはずだ)


 翌日学校で会ったときに相談してみよう——そう心に決めると、ようやく肩の力が抜けた気がした。それでも、胸の奥にこびりついた自己嫌悪は消えない。


 「はぁ……俺って、本当にどうしようもない」


 天井を見上げながら、誠は自分自身に苦笑した。その夜も、結局眠りにつくまでには、長い時間が必要だった。

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