客言

 丹桜におが生まれてから四ヶ月も過ぎた。首も座ってきて、たまにごろんって寝返りを打つようになった。寝返り、一回転出来なくて半分で止まるから引っ繰り返してあげないといけないんだけどね。

 残念ながら平日に私一人でも家事は崩壊してなくて夫婦喧嘩は起こってない。うちの旦那ったら有能だから、職場の育児制度をフルに使って残業なしの早上がりの上に勤務日数を八割にした上で貰う給料が平時と同じとかいう離れ技をやってのけたからね。私も何枚も書類に出産日とか書かされたわ。あんな文字の細かい書類をミスしないで一発で通したとかビビる。

 まぁ、そんなで旦那が休みの日に家事にも丹桜の世話にも私の世話にも手を出すわ、私も私で丹桜の世話しながら家事くらい回せるし、家は丹桜が生まれる前より小奇麗かもしれない。

 おかしいな。子供がいる家庭ってもっとごちゃごちゃして片付け間に合わないんじゃなかったか。

「我が家が綺麗すぎる」

「今日は人を呼ぶんだから、綺麗でいいでしょ」

 そんなおもきにいちいち真面目に返して来なくていいのよ、バカ旦那。

 返事なんかしてやんないんだから。ふーんだ。

 貴方よりも、丹桜のお着替えの方が大事なんですー。

 ふふ、桜の柄が入ったお洋服がとってもかわいいわ。頬擦りしちゃう。

 ずっと我が子を愛でるだけの一日でも私は全く構わないんだけど、今日は旦那の職場の人達が来てくださる。

 家の旦那ってば、職場でも人気と人望があるらしい。ま、仕事は出来るからな。

 上司の人が一人と部下の人が二人来るらしい。

 なんか同僚も誘ったらしいけど、断られたって。三人も来てくれたら十分でしょ。その断られたって情報、私に伝える意味あった?

 そんなことを考えていたら玄関のチャイムが鳴って、旦那が立ち上がった。

 丹桜が生まれてから、私の客も旦那の客も、なんなら配達の人でも、旦那がさっさと向かうから、チャイム聞いて立とうって気が全く起きなくなってるのよね。

 いや、待てよ。これ、まんまと旦那に甘やかされてないか? いい妻って、踏ん反り返って座ったままの主人の機嫌を損なわないように、子供を抱いてても率先して来客の出迎えをするものじゃんかったっけ。

「すみません、お邪魔します」

 リビングの扉を抜けた仕立ての良さそうなスーツを着た男性に声を掛けられて私は悩みから浮かび上がった。

「いえ、いらっしゃいませ」

 ソファに座ったままだけど愛想良く笑顔を向ける。急に立つと丹桜がびっくりしちゃうので、ごめんなさい。

 旦那にも手で座ったままでいいと制されてるし、旦那に続く男性、多分上司だと思うけど、この人もにこやかに目礼して私にお構いなくと言ってくださった。

 それから若い男女一組が賑やかに喋りながら入って来て私にお辞儀してくれた。

 いや、そんな腰曲げて深い礼をされるほどの人間じゃないけど、私。

「奥さん、今日はお招きありがとうございます。こちら、ささやかですが、ご出産のお祝いですので、召し上がってください。……竹上たけがみ、本当におめでとう」

 上司の人がわざわざ私にお菓子の袋を見せてから旦那にお土産を渡してくれた。

 え、あれ、池袋の駅とかにある自分で買う気が起きないくらいの値段がする蕨餅わらびちよね。蕨餅大好きだけど、え、そんなもの頂くのは恐れ多いのですが。

「ありがとうございます。妻の好物です」

「家にお邪魔させてもらいたいと言った時に、お前から奥さんが蕨餅好きだと言ってきたんだろうが」

 上司の人は茶目っ気たっぷりに私にウィンクしてくれたけど、待って、いえ、壮年だけどいい歳の取り方してて趣が良い感じに出てるのにそんな若々しい仕草も似合ってますが、待ってください、なんで初めて会った私にそんな好意的なんですか。

 旦那ですか。家では嫁バカで娘バカな旦那なんですが、職場ではそんなにお役に立ってますか。予想は余裕で出来ますが、納得はいきません。

「うわ、写真でも思ったけど、係長の奥さんめっちゃ美人! 綺麗! なにこれ、仕事出来て奥さんも可愛いとか、うらやま!」

「ちょっと、佐々木! 一緒にいるこっちが恥ずかしくなるから止めて!」

 へらへら笑って元気よく私を見てはしゃぐ男の子……すごい! 普通の若者だ! ちゃらくて勢い任せで思ったことをそのまま口走っちゃう今どきの普通の若者だ!

 仕事が出来て家事まで完璧にこなして奥さんに楽させるなんていう頭悪い女子の妄想の産物でもなくて、きっちりしてて礼儀正しくて丁寧な雲の上の紳士でもなくて!

 すっごく普通にダメなところもあるけどそこが愛せる現実的な男子がちゃんといた!

「え、あの、奥さん? なんでこのバカ見てそんな目を輝かせて嬉しそうな顔してるんです? うそ、係長みたいなタイプが好きで結婚されたんじゃないんですか?」

「え。顔はね、好みだけど」

 ぶっちゃけ人ととして見れないのよ、あの旦那。欠点がなさすぎるし、一途に過ぎるし。他の女を口説くとかは流石に嫌だけど、こう、妻になったら少しは興味が薄れるのが普通でしょ? なんで感情が揺らがないのよって感じなのよ。

「顔は」

 あ、私がつい口をついた本音を聞いて女の子が旦那に助けを求めるように視線を送ってる。

恵梨香エリカ、浮気されるのは嫌なんだけど」

「する訳ないでしょ、私を誰だと思ってんのよ」

 本気で闇の深い声出すな。こんな若い子に私みたいなコブ付きが手を出したら可哀想でしょうが。

「あんたみたいな人を超越したのと一緒に暮らしてるから、こういう人の駄目なところちゃんと持ってる子を見て安らぎを感じてるだけよ。私にも人間と関わらせろ」

 人外は貴方と未言未子みことみこでお腹いっぱいなのよ。丹桜はまだお喋りしてくれないしさ。

 私に同族と交流させろ。人間は群れで生きる生き物だから、同じ種族を見てるだけで安心が得られるのよ。

「……なんていうか、係長の奥さん、って感じですね」

「話通りツンデレだけど、ちょーお似合いですね、あと俺も命は惜しいし、美人を見てテンション上がっただけなんで人を殺せそうな目付で見るの止めてもらえませんか、許してください、これ以上過酷な業務の上乗せされたら死にます」

 ちょっと、こんな幼気な男の子睨むのは止めなさい。ていうか、これ以上ってことはこれまでにも過酷な仕事押し付けてんの?

 私がガンを飛ばすと旦那はすごすごと引いてお茶の用意をしにキッチンに退いた。

 ふ、勝った。丹桜、お母さん勝ったわよ。すごいでしょ。

「すごいなー。猫も間に入れないくらいにラブラブだ」

「ラブラブじゃありません!」

 ちょっと上司さん、今の攻防を見てなんで愛を見出すんですか!

 誰も彼も小学生みたいに私と旦那をくっ付けたがるのはなんなのか。いや、夫婦なんで既にくっ付いてはいますけど、心はくっ付いてないっていうか、私はパーソナルスペースしっかり取りたいのにそこのバカ旦那がずけずけと踏み込んでくるだけなんですってば。

 やはり、あやつこそ諸悪の根源。許すまじ。

 そんな私の恨みは旦那には届かず、来客人数分の緑茶がテーブルに並べられる。

「すみません、遅れましたが、こちらが妻の恵梨香と娘の丹桜です。今日はお越しくださりありがとうございます」

 旦那が私達の座るソファに近づいて手のひらでこちらを皆さんに紹介するので私は頭を下げて応える。

「幸せそうな奥さんと元気なお子さんが見られて嬉しいよ」

 代表なのか、上司の人が言葉を返してくださった。

 私は微笑みで感謝の意を伝える。

 そして旦那が今度は皆さんの方に近寄って私に向き直る。

「恵梨香、こちらが仕入れ一課の星課長。それから俺の部下になる佐々木と石見だ」

 星課長さんが会釈を、男の子の佐々木君が人懐っこい笑みで手を振り、女の子の石見さんがきっちりと腰からのお辞儀を、旦那の紹介に合わせて私に向けてくださった。

「いつも主人がお世話になっております」

 私ももう一度頭を下げる。特に佐々木君、旦那にこき使われて可哀想に。

「いえ、お世辞でも誇張でもなく、竹上はうちの課の成績をすごく上げてくださってますから、すごく頼りになっています。今回の長期休暇についても、奥さんの妊娠中から佐々木や石見を指導しつつ、自分の抱えている案件の主導権を渡して、本人がいなくても問題がないように手を打ってくれたんですよ」

 へー。三ヶ月も休んでサボりじゃんって思ったけど、やっぱ仕事出来る男は違うわね。その動機が四六時中娘の側にいて愛でたいってのを知らなければ素直に尊敬出来たわ。

「産休の間も係長はけっこう頻繁にメールくれて、行き詰った時には電話で相談にも乗ってくれたんで、ほんと助かったんですよ。まぁ、その前の特訓は地獄でしたけど」

「なによ、あんたは外注とか生産現場とのやり取り任されてたんだから光栄に思いなさいよ。私なんて社内調整ばっかりなんだから」

 佐々木君と石見さんも緊張がほぐれてきたのか、気安く喋る。

 ところで生産現場って、うちの旦那、ヨーロッパとか南米とかに行ってたはずだけど、それ全部引き継いだの? え、鬼?

「石見、適材適所だ。佐々木は、石見が内の面倒を引き受けてくれるから外に力を出し切れるんだから、成果は二人が揃ってこそだ」

 私が顔を見上げたのに気付かなったのか、旦那は石見さんにフォローを入れてる。

 旦那に叱られたと思ったのか、石見さんは耳を赤くして顔を俯けた。

 ちょっと声が固いのよね、この人。今のは君のがんばりをちゃんと知ってるぞって感じなんだけどね。

「マジで係長の言う通りだから。経理とか二課とかのやり取り、オレ無理だから。目の敵にしやがってよー。企画の奴らみたいにもっとノリ軽くなってほしいよ」

「経理課のお姉さま方は佐々木みたいなお調子者が浪費しないようにするのが仕事だし、二課とウチは対抗意識燃やして切磋琢磨してこその組織形態だぞ」

「うぅ、へーい」

 佐々木君が軽口を課長さんに窘められて渋い顔になってる。目上への口調に思えないけど、これは休日だからいつもより砕けてるのかな。仕事でもこれだと、ちょっと人によっては眉を顰めそう。

「てか、貴方って係長だったのね」

「そうだよ」

 旦那の役職が初耳だった私は今更ながらその確認を取る。

 丹桜が未声みこえを上げながら手を伸ばしてきたので左手の指を握らせてあげた。

 そうやって私が我が子に少し意識を向けた間に沈黙が降りていた。

 あれ、どうしたんだろ。

「竹上、お前、奥さんに自分の役職も伝えてなかったのか」

 課長さんの声が低くなってる。

 なんか機嫌を損ねることあった? え、私なんかやった?

「ええ、特に妻はその辺り気にしないので」

「はい、生活出来るだけの収入を持ってきてくれてるので満足してます」

 生活に困ったことがないのは本当にこの人に感謝している。貯蓄も無理なく積めているし、今後の不安もない。

 でも佐々木君や石見さんまでちょっと引いた顔してるのはなに?

 え、夫の役職知ってないって旦那の仕事の評価に影響するの? 知ってるふりしとくべきだった?

「いや、まぁ、プライベートのことだからいいと言えばいいんだが……お前、昇進の話蹴ったのは伝えてあるのか?」

「え、なに、昇進したくないの?」

 それは初耳だわ。この人のことだから自分の中で決めたから言うまでもないって思ってそうだけど。

「管理職になったら、現場行けなくなるからさ」

 旦那は端的に昇進を拒否した理由を告げた。

 なるほどね。工場でワイン飲んだり生産者の人達と会話したりっていうのが減るのが嫌なのね。事務仕事も余裕で熟すんだろうが楽しいことが出来なくなるって訳か。

「ふーん。え、もしかして、こやつが昇進しなくて会社が困ってたりします? そしたらここで言うこと聞かせますけど」

「え、こわ」

 んー? 佐々木君、何か言った? 違うよ? 私が怖いんじゃなくてうちの旦那がバカだから、私がやれって言ったら二つ返事でやるだけだよ。

「いえ、あの、現場にいて優秀なのも本当なのですけど、給料がかなり変わりますよ?」

「会社としては、優秀な人を低い賃金のままでいいっていうのは体面に目を瞑れば利が大きいですからね」

 ちょっと口を滑らせた石見さんが課長さんに睨まれて、肩を竦めて舌を出してる。若いっていいなぁ、そんな仕草、私もう出来ないよ、丹桜。

 丹桜の指、ぬくいなぁ。赤ちゃんっていつもこんなに体温高くて、なんで火食ほばまないんだろう。

 あれね、課長さん的にはもっと給料上がるのに家族に相談もせずに昇進蹴ってるの平気なんですかってことね。

「ねぇ」

「うん?」

 私が呼びかけても旦那はなんの不安もなさそうな呑気な顔をしてる。この話題が自分に不利だなんてこれっぽっちも思ってないな。

 まぁ、私も現状なんの不満もないから、働く人間が好きなことやればいいって思ってるけどさ。

 それはそれとして。

「丹桜がお金かかる学校行ったりとか、二人目が出来たりとかしたら、もっと稼いでよね」

「……子供のためだと思えば、我儘言えないかぁ」

 うっわ、納得はしてるけど嫌そうな声出してる。

「てか、あんただったら、管理職しながら現場に行くくらい出来ないの?」

「行けても年に一回か二回になるし……あ、いや、むしろ係長に仕事押し付ければもっと行けるのか?」

「そこでオレを見ないでください、入社二年目の人間に対して期待が重すぎます」

 佐々木君、可哀想。強く生きて。

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