第32話 夕方の帰路で②
「そ、そんなことよりさ、伊毬」
「なに」
「ここまで来たんだし、ちょっと上がっていったらどうだ。ずっと立ち話もアレだろ」
「えー、でも私、そろそろ帰ろうかと思ってたんだけど」
「そうか? せめてお茶の一杯くらいは……」
「ホントにいいって。ほら、もう暗くなってきたし」
伊毬が空を見上げる。秋の空だ。先程まで夕焼けに染まっていたと思った周囲の景色は、だいぶ宵闇が濃くなっていた。住宅街の道路はほとんどが暗がりに覆われている。
そうか。もうそんな時間帯なのか。
今日は早朝からずっと動き回っているせいか、時間の感覚が若干おかしくなっているようだ。そういえば、昨晩からほとんど休息を取っていない。裏山を駆けずり回ってそのまま学校に行って授業を受けて怪物に遭遇して……と、相当疲労が蓄積しているはずなのに、いままで眠いとかだるいとかいう感覚なしに過ごしていた。あるいは、一度にいろいろなことが起こりすぎて心身が半ば興奮状態になっていたのかもしれない。
——ああ、いけない。
自覚すると急激に眠気が襲ってきた。
まどろみに近い心地でぼーっと立っていると、夕焼け空がたちまち色褪せていき、次第に視界全体が残照に沈んでいく。近隣の家々の明かりが眩しく見える。遠くで踏切の警報鳴りが響いているようだが、雑音が多くてよく聞こえない。目の前では微弱な電光と日暮れの暗闇が混ざり合い、伊毬の姿がその中に渾然一体となって溶けて揺らいでいくように感じられた。
「……あのね、クロくん」
伊毬がぽつりと呟いた。
「その……ごめんね」
「え? どうしたんだよ、突然」
朦朧としかけていた俺は、そこで水をかけられたように我に返った。
「引っ越しのこと。私のウチがもっと広ければよかったんだけどね。そしたらクロくんも呼べたのに。ウチ、アパートで狭いからさ」
「……前も言ったけど、その話はもういいんだよ」
「でも……」
「いいんだって。伊鞠にはここの引っ越しも手伝ってもらったし。伊毬の家族にもあんまし迷惑かけられないしな」
「そんな、迷惑だなんて」
それに、家全体の大きさはともかく、住居スペースの広さだけで言えば、この家とそこらのアパートに恐らく大差はない。この家の奥に詰め込まれたあの骨董品の魔窟の実態を伊毬は知らないのだ。
「いいから。とにかく伊毬が謝るようなことじゃないんだって。だからあんまり気にすんなよ」
「クロくんがそう言うなら……。だけど、家族がもう一人増えるくらい、私は全然構わなかったんだけどな」
伊毬は照れ臭そうにはにかんだ。
見慣れているはずの彼女の表情がいつもより新鮮に映った。
俺はどう反応してよいかわからずに顔をそらす。気恥ずかしさを感じたのは俺だけではなかったようで、伊毬が「あっ、そういえば!」とわざとらしく話題を変えた。
「その……! そういえばさ、玲ちゃんとはあれから連絡とかしてるの?」
「玲か? いや、全然してないな」
「全然? どこ行ったとかも何も聞いてないってこと?」
「ああ、ラインもメールも音信不通だな。何度か送ってみたけどまるで返事なし」
「電話も?」
「電話も」
「あとはえーっと、玲ちゃんって他に何かアカウント持ってなかったけ。写真とか、動画とか」
「あいにくそれも知らないな。あいつは映画しか見なかったし。映画用のアカウントとかならなんかあったかもしれないけど」
「調べてみないの? 玲ちゃんが好きだった映画とか、クロくんならわかるでしょ」
「そりゃわかるけど、だからなんだよ」
「レビューサイトでそれっぽいレビューを片っ端から探してみるとか」
「いや、ストーカーかよ。さすがにキモいだろ」
「それはそうかも」
伊毬は真顔で首肯した。
「……まあ、最後にメール送ってみたのはもう半年以上前だし、電話は随分前に一回かけてみただけだけど」
「じゃあわかんないじゃん。もっぺんくらい試してみたら?」
「うーん。でもなあ」
「なーに? やっぱり気まずい?」
「それもあるけどさ……」
「あるけど、なに?」
伊毬はやや姿勢を低くして、覗き込むように俺の様子をうかがっていた。
「うっ。……だって、向こうが避けてるかもしれないのに、俺がしつこくするのもなんか違うっつうか」
「そういうもん?」
「そういうもんだろ」
「そうかなあ。でも、そうかも。でもなー……」
伊毬はまだ納得がいかないといった様子で何やら唸っていたが、
「まあ、いまはそれでいいのかもね。でも、玲ちゃんとはそのうちちゃんと仲直りしたほうがいいと思うな」
俺と玲は別に喧嘩別れしたわけではないのだが。
そう思ったが、訂正はしなかった。
「あっ。私、そろそろホントに帰らなきゃ」
「なんか悪いな。わざわざ来てもらったってのに。途中まで送ってくか?」
「ううん、大丈夫。お父さんに駅前まで車で迎えに来てもらうように約束してるから」
「そっか」
「うん。じゃあクロくん、またね」
「ああ、またな」
俺が手を挙げて応じると、伊毬は何度も手を振り返しながら路地の向こうへ駆けていった。その後ろ姿を見送って、俺は小さく安堵のため息をついた。本当にいろいろなことがあった一日だったが、ようやく気分が落ち着いてきた気がする。意図せず伊毬と再会したことで、気持ちに多少余裕が生じたのかもしれない。
昨日の夜から俺の周囲で巻き起こったさまざまな出来事。裏山の儀式跡の謎。部室の怪物の一件——。少なくとも伊毬と会話しているあいだは、そういうものへの不安や恐怖をいくらか忘れることができた。伊毬は伊毬で何やら俺に罪悪感を抱いているようだったが、俺としては気心の知れた相手がそばにいてくれるだけで精神的にかなり助けられていた。
……いや、あまり伊毬に甘えすぎるのもよくないか。あいつだっていつでも都合よく俺のとこに来てくれるわけでもないしな。俺自身がしっかりしないといけない。
そんなことをぼんやり考えながら裏の玄関に回ろうとすると、ふと、誰もいないはずの店の中から人の気配がすることに気づいた。照明の消えた店内には多くの古書や骨董品がぎゅうぎゅうにひしめき合っている。その暗がりの奥で、わずかだが、確かに物音がしていた。訝しみながら店舗正面のガラス戸に手をかけると、休業中で施錠されているはずのそれは呆気なく開いた。
——まさか、泥棒か?
俺は足音を忍ばせて店内に入った。身を屈めて陳列棚の隙間を慎重に進んでいくと、
「おや、黒真くんじゃないか。おかえりぃ」
奥の書棚の陰から顔を見せたのは、この店の主人——
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