ep9.二人の夜

「ただいま」


 一日も経っていないのに、随分久しぶりに感じた。

 分譲マンションの4階。節奈は中古の2LDKを購入して一人で住んでいたが、4年半前に穂多美が同居するようになった。

 穂多美の実家からは、車で1時間半ほどだ。


「どうぞ」

「……ありがとう」


 シアンは靴を脱ぐと、足を引きずるように部屋に入った。


「お母さんの家……」


 目は興味津々に部屋を見回したが、体はだるそうにソファに腰掛ける。

 穂多美は荷物を下ろしてエアコンのスイッチを入れた。留守の間にたまった熱気を払うよう、強めに設定する。


「何か飲む?」


 首を巡らせて尋ねると、シアンは首を振った。


「ほたと話したい」


 穂多美が部屋を横切って隣に腰掛けると、シアンはゆっくりまばたきをした。


「眠いんじゃない?」

「やだ」


 シアンは眉を寄せ、唇を噛んで抵抗している。


「僕、車でも寝ちゃって、もっと話したいのに」

「明日もあるよ。無理しないで」

「何も役に立てないし、迷惑かけてばかりだし」

「時夫さんが言ってたよ。子供は迷惑とか考えずに頼れ、って」


 サッとシアンの顔色が沈んだ。


「時夫さんは、頼れるもんね。かっこいいし」


 穂多美は面食らった。


「かっこいい……のかな?」


 見た目は普通だが、大人で頼れる部分はかっこいいかもしれない。

 でも、普段の言動は割とちゃらんぽらんだ。


「僕が寝てた間に、ほたは心をゆるしてるし」

「時夫さんへの警戒を解いたのは、シアンが気を許してたからだよ」


 しかし、声が届いているのかどうか、シアンはこくりこくりと船を漕いでいる。眠気に翻弄されているようだ。


「やだ……僕、もっと」


 シアンはがぶりと自分の手に噛みついた。穂多美はその勢いに驚く。


「シアン、やめて!」


 どうしたらいいかわからず、シアンの頬をさする。シアンは噛み締めた歯の間から唸った。


「もっとちゃんと生きたい。短くても」


 シアンは歯形の浮いた手で、穂多美にしがみついた。


「ほた、僕のこと忘れないで覚えててくれる?」


 ドキリとした。

 どうしてそんな、もういなくなるような言い方をするんだろう。


「忘れるわけないじゃない、今日は大冒険だったよ。それに私たち、いとこでしょ?」

「でも、一緒にいても寝てばかりで……もっとほたと、思い出を作りたいのに」

「私、男の子に膝枕したのなんて初めてだよ」


 シアンが穂多美を見上げた。瞳の光が揺れている。


「シアンはただ寝てたわけじゃないよ、私を信頼して、頭を預けててくれたでしょ?嬉しかったよ。初めての思い出だよ」


 穂多美はシアンの手を引いて立ち上がった。


「おいで」


 リビングのカーテンで仕切った一角に、節奈のベッドがある。

 そこにシアンを横たわらせると、穂多美は隣に潜り込んだ。


「寝ることも思い出にできるよ。今夜は一緒に寝よう?」


 シアンの頬が紅潮した。


「……すごい」

「すごいでしょ」


 手が伸びてきて、穂多美を抱き寄せた。

 近づいた顔がにっこり微笑む。


 シアンが目を閉じ、穂多美はまさか、と身構えたが、そのまま寝息を立て始めた。


 我に返ってみれば、寝かせようと必死で、とんでもないことをしでかしている。なんだ、一緒に寝ようって。シアンは男の子なのに。

 しかもお風呂にも入ってないし、着替えてないし、歯も磨いていない。乙女としてあるまじき事態だ。


 でも今は、肩に回された腕の温かさがしみじみと嬉しい。

 昔、母とこんなことがあった気がする。布団の中で抱き寄せて、にっこり微笑んでくれて……


 穂多美は泣きそうになった。

 こんな充足があったことなんて、忘れていた。


 穂多美はそっとシアンの体に腕を回した。

 エアコンを強くしていて良かった。冷気が回ってきて、ぬくもりが不快にならず心地よい。


 他のことは、明日考えよう。


 穂多美はシアンの規則正しい寝息に耳を預けて目を閉じた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る