第24話 壊れても、抱きしめてくれる人
あれから数日が経った。
202号室は、昼でも夜でも同じ灰色だった。
閉め切られたカーテンは一切の光を遮断する。季節の変化も、風の匂いも届かず、孤独な時間だけがよどんで積もっていく。
外界から切り離された小さな箱に、湿気と陰鬱だけが渦巻いていた。
廊下を通るたび、内側から漂う冷気のような気配。それが胸をざわつかせる。居ても立ってもいられず、はるかは合鍵を強く握りしめた。
インターホンを押しても沈黙。二度、三度押しても応えはない。意を決して鍵を回す。
――カチャリ
ドアを開けた瞬間、空気がどっと溢れ出した。
生温かく、よどんだ層が肌にまとわりつく。長く閉め切られた部屋の匂いは、酸っぱく乾いた残り香と、どこか甘ったるい湿気が混ざり合い、喉の奥を重たく塞いだ。ほんの一歩足を踏み入れただけで、胸の奥に鈍い圧迫感が広がる。
その中心――ぐしゃぐしゃの布団。
しずくはその中に小さく沈み込んでいた。
乱れた前髪は皮脂で額に張りつき、細い頬は削げ落ちるように痩せている。
首元の骨ばったラインが露わで、痩せた影が青白さをさらに強調していた。乾ききった唇は呼吸に合わせてかすかに震える。
赤く腫れた瞳だけが、枕の影からじっと覗き、にらむように揺れていた。
――その姿を見た瞬間、はるかの胸がきゅっと縮んだ。
あまりに変わり果てた姿に、声をかける前に息を呑む。喉がひりつくほどの痛みが広がる。
少し前まで笑って隣にいた少女と、同じ人間だなんて信じられないほどだった。
髪は艶を失い、頬は削げ、布団に沈んだ身体は影のように小さい。
その痩せた肩を見つめるだけで、はるかの胸はぎゅっと苦しくなった。
はるかは部屋を見回し、眉を曇らせた。
テーブルの端には、前に自分が作ったおかずがそのまま残っている。
「……この前の、ごはん」
思わず声に出す。
胸の奥に重たいものが沈み、息が苦しくなる。
「しずくちゃん、食べなきゃ……」
その言葉は叱るでも諭すでもなく、悲しみに滲んでいた。
まるで自分の無力さを告白するみたいに、小さく、か細く。
「……しずくちゃん」
かけた声は、すぐに弾き返される。
「……かえって」
冷たいのに、それでいてとげもない声。ただ無機質で、ただ遠い拒絶。
はるかは喉を詰まらせ、肩を落としながら台所へ向かった。鍋を出し、うどんを茹でる。コトコト、コトコト。やがて出汁と生姜の香りが、じわじわと重い空気に染み込んでいった。
湯気の立つ器をテーブルに置く。
「しずくちゃん、ちょっとでいいから食べて」
「……たべない。ほっといてって言ったじゃん」
「ダメだよ。食べないと」
はるかは布団の端に腰を下ろした。
逃げ道を塞がない距離を守りながら、そっと手を伸ばす。髪の表面に触れると、しずくの肩がびくりと震えた。
「わたし、汚いよ」
「……大丈夫。私が撫でたいだけだから」
しずくは顔を枕に押しつけたまま動かない。はるかは毛先を梳くように、重さをかけずに撫で続けた。ゆっくり、ゆっくり。
やがて、掠れた声が漏れる。
「……おねーさん、会社は?」
「休んだよ。体調不良って言って」
はるかは苦笑いしながら答えた。
「なんで、そこまでしてくれるの……?」
その問いにはるかは視線を落とした。胸の奥が熱っぽい。それでも逃げない。
「……好きだから」
沈黙。布団の奥で、しずくのまつ毛がわずかに震えた。
「……うそだよ。そんなの」
拒む声は弱く、布団の縁を摘まむ指先が震えていた。はるかは答えを急がず、撫で続ける。こめかみ、耳の後ろ、うなじの生え際。熱を確かめるように。
「……もう、ぜんぶどうでもいい」
ぽつりと落ちた声に、空気が固まる。
「…もうぜんぶなくなった。どうでもいい。……残ったのは、ゴミみたいな自分だけ。もう、毎日このまま消えちゃえばいいのにって思ってる。ほんとは」
枕に押しつけられた声は濁り、笑うような響きさえ混じっていた。狂気と諦めの境目に立たされている。
はるかは返す言葉を探しながら、それでも撫で続けた。撫でなければ、この子が崩れてしまう気がしたから。
「……私はしずくちゃんがいないと、嫌だよ」
ぽつりと零した声に、布団が小さく震える。
はるかは布団越しに背中をぽんぽんと優しく叩く。呼吸のリズムに合わせるように。
布団の中の手が外へ伸び、はるかの服の裾を掴んだ。必死に、懇願するように。
「……おねーさんは、わたしをきらいにならない?」
震える声は切実だった。
「ならないよ」
「……私はしずくちゃんの味方だから」
はるかは迷いのない声で答え、手を止めなかった。
やがてしずくは迷いながらも頭を寄せ、はるかの太ももに頬を押し当てた。冷たさに、かすかな吐息がほどける。
「……ごめん、汚れるかも」
「平気」
しずくの眉間のしわがほどけていく。浅かった息が、少しずつ深くなる。
「……おねーさん」
「ん?」
「……きらい」
「うん」
「……うそ」
そして、か細い声で。
「……すき」
はるかは笑わなかった。ただ髪を撫でる手を少し強めた。
「うん」
「どこにも、行かないで」
「行かないよ」
約束のように言葉を置く。
やがて規則的な寝息が、はるかの太ももに柔らかく当たった。
「今は何もできなくていいよ。生きてるって、それだけですごいことだから」
その囁きに応えるように、裾を掴んだ指先がさらに強く握り直された。
――まるで「離したら終わる」と信じ込むように。
依存の影が、静かに、甘い重さを帯びて広がっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます