第23話 なにも、知らないくせに

 それはあまりにも唐突に訪れた。


 ワイドショー、ネットニュースに踊る見出し――「Alice*Doll マイカ、熱愛発覚」。

 路上で男性と笑い合う姿、手をつなぐ瞬間。逃げ道のない写真がいくつも並んでいた。


 はるかはニュースアプリをスクロールしながら、息を呑んだ。

 SNSはすでに炎上。


「裏切り者」「解散しろ」「枕営業」――次々と罵声が流れていく。


 数日前まで応援の言葉で埋め尽くされていたタイムラインが、信じられない速度で毒の言葉に塗り替えられていく。


 そして――。


 ──「水瀬ルナ活動休止のお知らせ」。


 水瀬ルナのアカウントに残されたのは、事務所から発表された事務的なポストだけだった。

 そしてルナは忽然と表舞台から姿を消した。


 スマホの画面を握りしめる手に、力が入る。

 画面の向こうに飛び交う言葉が、ナイフのようにブスブスとはるかの心にも刺さってくる。


「……こんなの、どうして」


 胸の奥がざわつき、言葉にならない。


 はるかはただ、崩れていく光景を、俯瞰するしかなかった。


***


 朝。


 はるかは合鍵を握りしめ、202号室の前で立ち尽くしていた。

 インターホンを押しても沈黙が返るだけ。二度、三度押しても同じだった。


 胸の奥に不安が膨らむ。喉の奥がひりつくように乾きながら、意を決して鍵を回す。


 ――カチャリ。


 開いた瞬間、淀んだ空気がどっと流れ出してきた。

 むわっとした湿った匂い、カビが入り混じったような重さ。息を吸うだけで喉が詰まりそうになる。


 カーテンは固く閉ざされている。外の光を拒絶していた。


 床には食べさしのコンビニ弁当の容器、飲みかけのペットボトル。裏返ったままのTシャツや靴下、さらには下着までが乱雑に散らばり、部屋全体が灰色でくすんで見える。


「…しずく…ちゃん?」


 その中心に、布団がぐしゃぐしゃに沈んでいた。

 声をかけると、かすかな動き。しずくがのろのろと顔を出した。


 赤く腫れた目がこちらをにらむように揺れている。眠れぬまま泣き腫らした跡。頬は血の気を失って青白い。


 その表情は、普段の甘く魔性の笑みをまとったしずくとはまるで別人だった。


 ひび割れた唇がわずかに動く。


「……来ないで」


 かすれた声。

 そこに宿るのは甘さではなく、拒絶に近い冷たさ――。


 ステージで輝き、観客を魅了してきた「ルナ」の影はどこにもない。

 今ここにいるのは、光をすべて失い、壊れかけた残骸のような「しずく」だけだった。


「……学校、遅刻するよ」


 はるかはできるだけ柔らかい声で言う。


「……行かない」


 即答。

 小さく唇を噛んで、視線は天井をさまよう。


「しずくちゃん……」


「もう……起こさなくていいから」


 布団に沈む声は乾いていて、諦めに沈んでいた。

 けれど、布団を握る指先だけが小刻みに震えている。その矛盾が、はるかの胸をさらに痛めつけた。


 視線を横にやると、机の端には煙草の空箱。

 灰皿の中には二本だけの吸い殻が、湿ったフィルターを覗かせていた。


「……しずくちゃん、まさか……」


 声が自然と震える。


 しずくは天井を見上げたまま、口元にかすかな笑みを浮かべた。


 笑みというよりも、皮肉に近い歪み。


「ちがうよ。……あのひとが最後に来たときに吸ってったやつ。捨てられなくて。ほんとバカだよ」


 指先で吸い殻をつつきながら、淡々と続ける。


「咥えるとさ……キスしてるみたいな気がするの。……まだ、ここにいるみたいで」


 その言葉に、はるかの胸がズキンと痛む。


 何も知らなかった――しずくに、そんなふうに心を埋めた誰かがいたこと。


 その人の亡霊に、いまだ囚われていること。


「……」


 はるかが声を失った一瞬、しずくはふと顔を向けた。

 赤く充血した目で、にじむ涙を隠そうともせず。


 しずくは突然、ふっと声を漏らした。

 乾いた、どこか上ずった笑い。笑っているはずなのに、目の奥には光がなかった。


「……ほんと、笑えるよね。帰る家もなくて、グループもぐちゃぐちゃで…」


 笑いはすぐに咳き込むみたいに途切れて、肩だけが小刻みに震え続ける。

 その手は机に伸び、灰皿の中の吸い殻をそっとつまんだ。湿ったフィルターを指先でなぞる仕草。それはまるで壊れ物を愛でているようだった。


「……あそびでも…必要としてくれてた人も、もういない。ぜんぶ空っぽ」


 笑いと執着が混ざった声。

 タバコの残骸に縋りつくその姿は、壊れた心の奥をそのままさらけ出していた。


 はるかは胸が締めつけられる。


 ――これ以上、この子を放っておいたら、本当に壊れてしまう。


 はるかは言葉を失い、ただ布団の端に腰を下ろすしかなかった。

 触れれば砕けるガラスのように壊れそうで――それでも放っておけなかった。


「……おねーさん、なんでいるの。」


 しばらくして、しずくが低くつぶやいた。


「がっかりしたでしょ。あんなビッチなアイドルグループで。わたしなんか……ほっとけばいいのに」

「放っとけないよ」


 はるかは即答した。


「目の前のしずくちゃんがこんなに苦しそうなのに……無視なんてできないよ」


 暗闇の中で、その言葉がじんわりと広がっていく。


「マイカのフライデーは、その……しずくちゃんが気にすることじゃないよ。」

「……っ」


「今はちょっと炎上して、みんなのところにも飛び火してるけど……世間は忘れるの早いっていうか。きっとすぐ落ち着くから」


 はるかの声は柔らかかった。慰めようとしているのが伝わる。

 でも、そのやさしさは、しずくにとって無神経な刃だった。


 唇が震える。胸の奥に刺さった棘が、さらに深くえぐられるように痛む。


「……なにも、知らないくせに」


 かすれた小さな声。

 けれどその瞳は、にらみつけるように鋭くはるかを射抜いていた。


「え……?」


 何を間違えたのか分からず戸惑うはるかに、しずくは布団を握りしめ、顔を逸らした。


「……ごめん…、ひとりになりたい」


 突き放す言葉は、涙に濡れて重かった。

 はるかは返す言葉を探したが、喉が固く塞がって声にならない。


「……分かった」


 やっと絞り出したその一言さえ、ひどく遠く感じられる。


 扉が閉まったあと、静寂の中でしずくは小さく肩を震わせた。


 ――誰も、自分の痛みを知らない。


 そんな冷たい確信だけが、部屋に沈んでいった。


***


 部屋を出たはるかは、しばらくしてそっと戻ってきた。


 手には、湯気を立てる味噌汁の器と、簡単なおかずが並んだ皿。

 テーブルに一つずつ置くと、ふっと小さく息をついた。


「……ごはん、ここに置いとくね。少しでも食べて」


 声は穏やかで、静かな空気を壊さないように落とされた。

 鍋から立ち上る出汁の香りが冷たい部屋に広がり、わずかにぬくもりを灯す。


 布団に横たわったしずくは反応しない。

 顔を背けたまま、瞳は空ろで、まぶたの奥に沈んでいる。

 鼻先をかすめる匂いに一瞬だけ睫毛が揺れた。


 静まり返った部屋に残ったのは、冷たさのなかに漂う、かすかな温もりだった。

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