第17話 胸の奥でざわめくもの
「おじゃまします…」
しずくが201号室のドアをそっと押し開ける。
途端に、空き缶とスナックの残り香が混ざった、甘くけだるいアルコールの匂いがふわりと鼻をかすめた。大人たちだけが知るゆるんだ空気。まるで別世界のように部屋からあふれ出してくる。
「――あ、しずくちゃん」
はるかの声が弾んだ。
振り返ったその顔は、頬にほんのり赤みを帯びていて。普段よりも柔らかい笑みを浮かべている。
少しアルコールに火照ったその表情。普段のきちんとした姿からは想像できない無防備さがあった。
彼女が手を振る仕草さえ、どこかふわふわと緩んでいて、しずくの胸はちくんとした。
***
「そういえばさ〜、あたしって、けっこう頼れる部長だったよね?」
「……え?全然だよ。どの口が言うの?」
「いやいやー、即答やめろて!」
香澄が豪快に笑い、テーブルをバンと叩く。
その笑い声に合わせて、はるかも肩を揺らしながら笑った。グラスを口に運ぶ仕草まで柔らかくて、心から楽しんでいるのがわかる。
しずくは少し離れた場所に腰を下ろし、箸でおかずをつつきながら、二人の笑顔をじっと見つめた。
「頼れる部長だったら、まず大会に寝坊しないでしょ」
「あー……あったあった。3年の時ね」
「あの時どれだけ焦ったと思ってるの。結局、会場まで行くバスに待ってもらってみんなで遅刻したんだから」
香澄はゲラゲラと笑い、ポテチをつまんで口へ放り込む。はるかも呆れながら笑っていて、その目元はどこか楽しげに細められていた。
――ああ、おねーさんって、こんな風に笑うんだ。
しずくの耳には、香澄の大声と一緒に、はるかの明るい笑いがやけに近く響いた。胸の奥に小さな波が立ち、落ち着かない。
(……おねーさん、楽しそう。この人といると、昔に戻れるんだ……)
(わたしの知らない昔……)
「でもあの時予選通ったし、結果オーライじゃん?」
「それと遅刻は関係ないでしょ!あんたのドタバタで冷や汗だったわ」
はるかが身を乗り出して話に熱を込める。
その瞬間、香澄が当然のように肩へ身体を預け、軽く頭をもたせかけた。さらに、はるかの腕に自分の腕を絡めるようにして密着し、ゲラゲラと笑う。
「こうしてると、また中学の頃に戻ったみたい〜」
楽しげに見上げる香澄の顔と、それに戸惑いながらも受け入れるようなはるかの表情。その光景に、しずくの胸がざわつく。
カチン。
箸先が皿を叩いた音に、しずくは自分でもはっとする。指先に無意識の力がこもっていた。
(……なんで、そんなに近いの。ずるい)
知らないエピソードが語られるたびに、胸の奥に見えない棘が突き刺さるようだった。笑い声が響くほどに、なぜか息苦しくなる。
「……そういやさ、合宿の時、肝試ししたの覚えてる?」
「あー、あったねぇ。香澄、泣いてなかった?」
「アハハ!そうだっけ?マジで怖かったじゃんあれ」
「叫び声がうるさすぎて、近隣から苦情来たんだよね」
香澄はケラケラと笑い転げ、はるかも声を合わせる。二人だけの温度が部屋にできあがっていく。
しずくは黙ってコーラの缶を持ち上げ、喉に一気に流し込んだ。炭酸が強く喉を焼き、目頭がじんと熱くなる。
(……わかんない。なんで、こんなに胸がざわつくんだろ……)
「あ〜〜飲んだ飲んだ〜〜!」
勝ち誇るように言った香澄は、そのまま勢いよく床にひっくり返り、大きく両手を広げて寝転んだ。あっけないほどすぐに目を閉じ、子どもみたいに眠り込んでしまう。
***
一転して訪れた静けさ。小さなテレビの音と、はるかがシンクで皿を洗う水音だけが響く。
しずくは立ち上がり、静かにその背へ近づいた。
「しずくちゃん、ごめんね。分からない話ばっかりでつまらなかったよね…」
はるかが振り返るより早く、しずくは背後からそっと腕を回した。
しずくはゆっくりと顔をうずめ、はるかのお腹のあたりで両手を組みぎゅっと抱きしめる。その手は細いのに、不思議と力強かった。
「し、しずくちゃん……?いきなり、なに……」
はるかの声が震えている。驚きと戸惑いが入り混じって、耳の奥まで熱を運んでいく。
はるかの身体が熱くなっていくのを、背中越しにも感じた。
「……おねーさんは、だれにでも優しいんだね……」
小さな吐息に混じった自分の声は、ほんの少し拗ねていて。
そのまま続けるように、しずくの腕がさらに強く締まる。
「……なんでかわかんない。けど、おねーさんが他の人のほうばっか見てると、ムカつく」
甘えとも嫉妬ともつかないその言葉に、はるかの胸が大きく波打った。
背中で響く心臓の鼓動が速くなっていく。
ドクン、ドクン――。
慣れないリズムが、震えとともにしずくの腕に伝わってくる。
しずくは目を閉じて、その音を確かめるようにさらに頬を寄せた。
――聞こえる。すごくドキドキしてる。
――でも……香澄さんにくっつかれてる時もこんな風に鳴ってるのかな。
しずくは、そんなことをふと考える。
背中越しに伝わるその心音のリズムが、無性に愛おしかった。
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