第3話 ムカつくヤツ

 第一印象は、ぶっきらぼうだが冷血ではないという所だった。ボクの新しい居候先の家主、塩原翔のことだ。

 なんだかんだ言いつつも、見ず知らずの根無し草なボクを部屋に置いてくれたんだから。

 ……って、昨日の夜までは思っていた。


「なんで目玉焼きに醤油かけてんだ!」

「いいじゃん!てか醤油以外あり得ないでしょ!」

「お前の好みは知らない!私の分まで勝手にかけんなって言ってんだ!」


 昼食の一幕。塩原翔ことしょーちゃんと交わした契約を果たすために、意気揚々とハムエッグを作ったわけだが。勝手に醤油をかけてお出ししたら、胸ぐらを掴まれた。


「チッ、迷惑女め」


 は?今舌打ちした?仮にもご飯作ったってのに?


「コレいらん。お前が食え」


 皿ごと突き返される。そしてすぐに、財布を持って自分の分の朝食を買いに出ていった。

 もう閉じられてしまった扉に向かって、べーっと舌を出してみる。けど虚しくなってすぐに辞めた。


 それからもずっと、同じような調子だった。

 昼食はもちろん、掃除も洗濯も、ことあるごとに衝突を繰り返した。ならばもう、塩原翔との間に亀裂が生まれたのは明確だった。


 中でも決定的だったのは。昼下がり、掛け時計の長針と短針が直角を描いた頃だった。

 ベッドの上で熱心にタブレット端末を見つめるしおちゃんが居た。タイガーアイのような瞳が、一つの濁りもなく澄んでいる。ボクに対する振る舞いと比べて、あまりに不釣り合いな美しさだった。

 メガネのレンズ越しに見ているものが一体なんなのか、無性に気になった。


「なに見てんの?」

「……………」


 ピクリとも動かない。


「ねえってば」


 肩を軽く叩いても、全くレスポンスがない。彫像のように同じ体勢から動かない冷血娘は、だんまりを決め込んでいる。

 そーですか無視ですか。ならこっちにも考えがある。


「そらっ」


 タブレットをむしり取ると、流石にこっちを向いてくれた。それはもう鋭い眼光でしたことよ。


「返せ」

「返事くらいしなよ」

「お前にそんなことする義理あるの?」

「は?」

「あ?」


 取り上げたタブレットの画面を見てみると、パッと見九割が水色だった。なんだこれ、と目を凝らしてみると、どうもプールを上から映しているみたいだった。


「おいこら」


 奪われたものを取り戻そうと腕を伸ばしてくる塩原翔。それを適当にあしらいながら一時停止されていた動画を再生する。

 長方形のプールに七つか八つくらいの水しぶきが上がっている。それは右から左へと滑らかに移動している。要するに泳いでいる。

 たまーにテレビで見かけて、一瞬でチャンネルを切り替える、そんなトップレベルの水泳だった。

 こんなものを熱心に見てたのか。一体なにがおもしろいんだろ。


「いい加減にしろっ」


 奪ったタブレットをむんずと掴まれて持っていかれた。再びしょーちゃんはタブレットに視線を戻す。くるっと半回転して、丸めたトレーニングマットを枕代わりにして寝転がった。二度と関わるなと暗に言うように。


 なんでか腹の底の辺りが熱くなった。イライラして、底に溜まった溶岩が煮えたぎっているかのようだった。

 なんでこんなことで苛立ってるんだ、ボク。

 ……いや、なんでとか考えるまでもない。ただ、認め難いだけだ。


「……」


 羨ましい。

 それが何であれ、夢中になれる何かがあることが。

 みんな、何だかんだ言いつつも、自分の好きなことがある。趣味とか、嗜好とか、そういうものが。

 或いは、人を好きになる。友だちとか、憧れの人とか。中学生や高校生にもなれば、当たり前のようにみんな恋をする。


 なんでそういう風に思えるんだろう。どうやって見つけたんだろう。いくら考えたって分からない。

 ボクには、何もない。


「こんなの、なにがいいの?ちゃぷちゃぷ泳いでさ」


 つい、口にしていた。別にそんなのどうだっていいのに。

 図らずもバカにしたような発言に、しおちゃんは反応した。

 ゆっくりと立ち上がると、ボクを睨みつける。首元に刃物を突きつけられているみたいな錯覚がした。


「なんだって?」


 素よりも低く重厚な声に、思わず気圧された。


「だ、だから。こんなのに夢中になるなんて理解できないって……言ってんの」

「…………ッ!」


 また乱暴に胸ぐらを掴まれた。鬼みたいな形相をして、けれど何も文句を言わない。歯を食いしばって、必死に怒りを制しようとしているみたいだった。

 どうも虎の尾を踏んでしまったみたい。けど、それはボクの方だって同じだった。


「こんなの単なる同じ動作を繰り返してるだけじゃん!一体なにが楽しいんだか……!」


 自分でもなんでこんなに腹が立つのかわからなかった。いつもだったら横目に流して終わるはずなのに。

 だけどもう理性なんてとうに吹き飛んでいた。


「…………」

「水泳好きみたいだけどさ!別に将来なんかの役に立つわけでもないのに。なんにも意味ないじゃん!」


 自分でそう言って、ハッと我に返る。

 将来の役に立つ――――上辺だけをなぞったその言葉、ボクは嫌いなはずなのに。どうしてボクはそんなことを口にしたのか。


「…………」

「……なんとか言ってよ」


 てっきり言い返されると思っていたのに、黙りこくったままだ。自分だけがヒートアップしていて、調子を乱されてしまう。別にここまで言うつもりはなかったけど、全くの嘘というわけでもないから、引くに引けない。

 掴んでいた手を解くと、塩原翔は静かに閉じていた唇を開いた。


「歯、食いしばれよ」

「は?」


 いきなり何を言い出すかと思えば。

 そう思った時には、バチンッと強烈な音がしていた。それから左頬に大きな音に見合う痛みが。

 要するに、思いっきり平手打ちされたのだ。


「ったぁ……いきなり何すんの!」

「うるさい、文句あるなら出て行け」

「なっ…………」


 言うだけ言うと、再び塩原翔は寝転がってタブレットに視線を戻した。

 今度こそ何事も取り合わないと言わんばかりの拒絶の意思が、向けられた背中から溢れていた。

 出て行けと言われては反抗できない。長居をするつもりはないけど、まだ新たな居候先が決まっていない現状で追い出されるのは色々としんどい。

 それからというもの、小競り合いは散発的に起こりつつも、会話らしい会話は特に無かった。

 気まずい空気のまま、休日を終えた。

 そして来たるは月曜の朝。

 爽やかには程遠い時間の中、朝食を終えた。朝からメニューを変えるのが面倒だったので昨日と同じに。何もかけないで出すと、しょーちゃんは大して美味しくもなさそうに口に運んだ。

 それからお互い学校へ行くために着替えるわけだが。


「あれ、もしかして……」


 お互いに灰色のブレザーと、紺がベースのチェック柄のスカート、そしてワインレッドのリボン。スカートの長さを除けば全く同じ格好をしていた。

 つまり、同じ学校ってこと……?確かに高校生とは聞いてたけど。

 それにしても、制服になると印象が変わる。昨日、一昨日と常にジャージだったというのはあるが、スカートが女の子らしさを如実に際立たせている。

 短くざっくばらんにカットされた黒髪に、流れるようなボディラインと相まって、スポーティで可愛い少女という感じの姿だ。……顔に貼りつけた仏頂面さえなければ、だが。

 同じ学校であるという事実に塩原翔も気づいて、苦虫を噛み潰したような顔になる。


「……何年生?」


 渋々と尋ねる塩原翔。


「一年だけど」

「一緒か……」


 大きなため息で、鬱陶しいですと暗喩にすらなっていないメッセージをボクに叩きつける。あからさま過ぎて腹が立つこともない。

 そういや、ここからどうやって高校まで行くんだろ。殆ど縁のない地域だから、地理が全く頭に入っていない。せっかくだから教えてもらおうか――――ああいや、スマホで調べればいいか。


 どうにも朝は弱くて、いまいち頭が回らない。

 コーヒーでも飲もうかと思案していると、いつの間にか塩原翔は玄関で指定のローファーを履いていた。

 トントン、と地面を軽く蹴って、靴の履き心地を整えながら、こちらを向く。


「おい、何してる。さっさと行くぞ」

「なんで。別に一緒に行く必要なんかないでしょ」

「鍵閉めなきゃだろ」

「ああ……」


 そういやそうか。すっごい形相で睨んでくるかつい反射的に訊いちゃった。

 でもなあ。


「んー……。いや、やっぱいいや。ボク、サボるわ」

「は……?」

「鍵くれない?二度寝した後に学校行くからさ」


 無理をして勉強しても、頭には何も入ってこない。眠い時はちゃんと睡眠を取らないと。

 渡すのがイヤだったのか、一瞬眉間のシワが真っ黒になるくらい深くなったけど、やがて渋々と鍵を差し出した。


「絶対失くすなよ」

「分かってるってば」


 鍵を受け取ると、後は黙って家を後にした。

 三日目にして、初めてこの家で一人になる。こうして全体を見渡してみると、部屋自体は年季が入っていても、置いてある物とかは真新しい。


「さて……寝るかー」


 制服を脱ぎ捨て、そのまま布団に潜り込む。

 新しいといえば、この布団だってそうだ。まだ誰の匂いも染み付いていない。シーツはすべすべで、枕にはちゃんと反発がある。


「そういや、まだアイツのこと何も知らないんだよな……」


 ケンカばっかでロクに口も聞けないし。

 まあ、所詮は他人のこと。あと数日の縁でしか無いし、どうだっていいか。

 今はとにかく、静かに押し寄せてくる睡魔に身を委ねるとしよう——————

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