第一章

第1話 奇縁-1

 人とすれ違うことが少ない夜だった。


 車の通りも無く、快適なランニングコースである。

 コンクリートを踏みつける音は、メトロノームを刻むように一定のリズムで。床を蹴るごとに、身体がぐんっと勢いよく前に出る。

 ここのところ毎日している近所の住宅街でのランニングだが、今日は一段と調子が良かった。もうすぐノルマの十キロを走り切ろうかという所だが、あまり疲労は感じない。大腿四頭筋もハムもまだ動かせるし、息は上がっているがまだ整えていられる。


 良い気分だ。

 春先の微かに寒さを残す夜気と共に駆け抜けながら、積み上げるように身体に負荷をかける。煩わしさも雑念もなく、ただただ己を磨くことに専心出来ている感覚。誰の干渉も受けないこの感じが、私には心地がいい。


 気づけばゴール地点の公園が見えた。そこに入ると、延々と動かし続けた脚をようやく休ませた。


「はっはっはっ………はっ……」


 息が上がる。

 止まった瞬間、急に肺が苦しくなって膝に手をついた。

 疲労もどっと押し寄せてくる。身体の中に籠もった熱が質量を持ってのしかかってくるようだ。

 多分ランナーズハイというヤツだったのだろう。走っている時は楽だったが、実際はかなり身体に負担がかかっていたらしい。普段走らないものだから調子に乗りすぎたか。


 ともあれ、このまま立ち止まったままじゃいられない。

 不規則で荒くなった呼吸をどうにか整えて、ゆっくりと歩き出す。あれだけ走った後、ここまで身体を酷使したなら、疲労を残さないためにもクールダウンは欠かせない。


 砂利が敷かれた地面を、公園の縁に沿って歩く。

 それなりの広さがある敷地を見回すと、いくつかの遊具の複合したものが二つ三つほど鎮座してある。ガス灯のようなデザインの電灯がいくつか設置されているから、夜の割に暗さは感じない。

 あと他に目ぼしいものがあるとすれば、四月の上旬だというのに殆ど散ってしまった桜と地面に倒れた人――――人?


 遊具のそばに黒い塊が横たわっている。影になっていて分からなかったが、よくよく目を凝らして見てみれば、それは紛れもなく一人の人間だった。波打ち際に打ち捨てられた漂流物みたいだった。

 まだ夜の八時だというのに、酔いつぶれた中年男性だろうか。だが、それにしてはフォルムが小さいような気もする。

 見るからに怪しい。遠目で観察してみても、それはピクリとも動かない。


 正直、関わるのは憚られた。厄介事であるのは火を見るより明らかだ。

 だが、もし命の危機に瀕していたとしたらどうか。見たこともない赤の他人の命なんてどうでもいいが、まさかと高を括って本当に死なれでもしたら寝覚めが悪い。


「はぁ………」


 仕方がない。何かあることの方が珍しいし、何もないのなら放ったままにすればいいんだ。……そう自分に言い聞かせて、その物体に歩み寄る。


 地べたでうつ伏せに寝転がっているそれは、やはり男ではなく女だった。恐らく肩くらいまではある茶色の髪に、若草色のワンピースがその証左だ。

 パッと見ても、何ら異常な所はない。泥酔して倒れてる…ということはないだろうし、どこかしら傷つけられた様子もない。


「あ、あの……大丈夫ですか」


 肩を二、三度軽く叩いてみる。


「うぅ……」


 呻き声を上げた。どうやら生きてはいるみたいだ。

 それからゆっくりと上体を起こして、そして起き抜けにこんなことを言った。


「あの、助けて……欲しいんですけど」

「えっ」


 思わずそんな間の抜けた声を漏らしてしまった。


「と、取り敢えず大丈夫……ってことでいいのかな」


 敬語も自然と剥離されていた。これは本当に無意識のことだった。

 けれどすぐにこのことを立証するかのように、コイツは自分の株を下げる行為に出た。

 即ち、砂だらけの汚れた身体で私にしがみついて来たのだ。そして泣き言を喚き散らかす。


「だいじょばない!お腹が空いて死にそう!」

「やめろ、ひっつくなっ!服が汚れる!」


 無理やり引き剥がそうとするも、線の細い身体に反してすごい腕力で食い下がる。どれだけ抵抗してもそれ以上の力で服を掴んでいるから、全く振りほどけなかった。

 本当になんなんだ。鍛えているからそこらの女性よりは腕力はあるはずなのに。

 ていうか、助けてってただの行き倒れなのか。倒れるほど空腹だというくせに、今は割りと元気じゃないか。

 何にせよ、まずはコレをどうにかしなきゃいけない。


「あーもう!一回落ち着けお前!」

「イヤ!いいって言ってくれるまではーなーれーなーいー!!」

「このッ……わかったわかった!飯食わせればいいんだろ!」


 あ、やばい。しつこくてついそんなことを口走ってしまった。

 しかし時既に遅し。おかげで抵抗をやめて離れてはくれたが、パーッと顔を明るくしてこっちを見ていた。


「いいの……?」


 小さなリスのような瞳をこちらに向けられる。本意でなかったのに、向こうはすっかりその気だ。


「…………」


 断ってしまいたい。そもそも助ける義理なんかない。

 だが、口を滑らせただけだとしても。一度自分の口にしたことを曲げるのは、なんというか性に合わない。


 心の中で二つの主張が鍔迫り合う。火花を散らす接戦の末……勝ったのは後者だった。嘘をつくということは、自分で自分を貶めるということだ。自分を損なうような真似だけはしたくない。

 面倒だが、悪いのは軽々しく引き受けてしまった自分の口だ。そう、渋々納得することにした。

 はぁ、と大きくため息を一つ。


「いいよ、来なよ」

「ホント!?ありがと~!」


 そいつはこちらが了承するなり、ピョンピョンと飛び跳ねて喜んだ。ほんとに空腹で倒れてたんだろうな、コイツ。

 ああクソ、なんでこんな面倒なことになったんだろう。

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