第五章 「窓を開けて」と言ったのは誰か

その日の放課後、瑞希は職員用ノートPCを閉じたあと、いつものようにカーテンを開けた。


 春の光が、まるで水を撒くように部屋へ差し込む。

 机の上のプリントが、一枚、風にあおられてカラリと音を立てた。


 瑞希は窓を開ける。空気がゆるやかに流れ込み、カーテンが柔らかく踊る。


 換気。感染対策。形式的な動作――

 でも、あの日、みのりがチャットで問うた言葉が、胸の奥に残っていた。


「先生、窓を開けるのって、本当に意味あるんですか?」


 ただの衛生管理の話ではなかった。

 彼女の問いは、どこか自分自身の心に風を通すことを、求めていたようにも思えた。



 翌日のホームルーム。

 みのりの名前は、いつもと同じ場所に表示されていた。


 カメラもマイクもオフ。反応は何もない。

 だが、チャットには短い一言が届いていた。


 > 【八木澤 みのり】:います


 「みのりさん、ありがとう。“います”って言ってくれるの、私は本当に嬉しいよ」


 瑞希はそう言って、画面に向かって小さく頭を下げた。


 その後、授業の終わりに再び全体チャットを開くと、みのりから個別メッセージが入っていた。


 > 【八木澤 みのり(プライベート)】:

 > 窓を開けると、父が怒ります。

 > 外から音が入るのが嫌なんだって。


 瑞希は、一瞬言葉を失った。


 画面の向こうでは、きっと誰にも見られないように、指先で打ったであろうその文章。

 そこには、静かな重さがあった。



 みのりは、日を追うごとに少しずつ“言葉”を増やしていった。


 カメラはまだオフ。声も聞こえない。

 でも、チャットの文字だけが、彼女の呼吸のようにリズムを刻む。


 > 【八木澤 みのり】:

 > 先生の声、聞いてると落ち着く

 > でも、父が近くにいるときは、イヤホンを片耳にしかつけられない

 > 音漏れで怒鳴られたことがあるから


 > 学校って、変なとこだったけど、

 > 家よりはマシだったかもしれない


 瑞希は、画面の向こうで瞬きもできず、その一行一行を見つめていた。


 それは、SOSでも、愚痴でもない。

 心の奥をそっと差し出してくれている言葉だった。



 数日後、瑞希は彼女に初めて「質問」を返した。


 > 【宮崎 瑞希(教師)】:

 > みのりさんは、窓の外に何が見えたら、開けてもいいと思いますか?


 すると、1分後に返ってきたのは、意外な一言だった。


 > 【八木澤 みのり】:

 > 音楽室


 > 昔、窓の外に音楽室が見える教室があって

 > そこで合唱してる声が、風にのって聴こえてくるのが、すきでした


 > 誰が歌ってるのか分からないのに、

 > 声って、ちゃんと“人”なんですよね


 瑞希は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


 (この子は、ちゃんと“届く声”を覚えてる)


 そして、それを求めている。

 いまこの瞬間も、画面の向こうで。



 瑞希は次のホームルームで、生徒全員にこんな問いを投げかけた。


 「今、みんなが“誰にも聞かれていないけど、誰かに届いてほしい声”って、どんな声?」


 カメラはオフのまま。反応もまばらだった。


 だが、みのりはすぐにチャットに答えた。


 > 【八木澤 みのり】:

 > 歌ってもいい、っていう声



 その夜、瑞希はギターを持ち出した。

 大学時代にサークルで使っていた古いアコースティックギター。

 チューニングは狂っていたが、音はまだ鳴った。


 スマホで録画したのは、静かな一曲だった。


 『翼をください』

 ――中学の合唱曲として、何度も歌った歌。


 画面越しの誰かに、届いてほしかった。



 翌朝。

 Zoomを開くと、みのりから一本の動画リンクが送られてきた。YouTubeの限定公開URL。


 サムネイルには、夕焼け空の窓辺。

 その奥に、薄く映るシルエットがあった。


 再生すると、聞こえてきた。


 かすかな、そして――たしかに“みのりの声”。


 震えてはいたけれど、息継ぎのたびに“誰かに聴かれている”という覚悟があった。


🎵 この大空に 翼を広げ

飛んで行きたいよ――


 マスクも、沈黙も、壁も。

 その歌声は、それらを超えて、まっすぐに届いた。



 その日、瑞希は窓を開けて授業をした。


 カーテンが揺れてもいい。声が少し漏れてもいい。

 その風の中に、きっと“誰かの歌”が残っていると信じて。

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