第四章 ノーマスクの家族

拓也が帰った翌日、瑞希は実家の玄関で思わず足を止めた。


 玄関の靴箱の上に、手作りの紙の貼り紙が置いてあった。


 《マスク不要。ウイルスは嘘。テレビを見るな》


 黒のマジックで太く書かれたその文言に、瑞希は眉をひそめた。


 (また、兄さん……)


 兄・陽一。四つ上、地元で配送業を営んでいる。

 家族と顔を合わせるのは月に1、2回。最近は、何かと母に“正しい情報”を説くようになっていた。


 瑞希がリビングに入ると、案の定、陽一はテーブルに肘をつき、スマホで動画を見ながら母と話していた。


 「マスクなんて、意味ないって海外じゃもう常識なんだよ。ウイルスはただの風邪、死んでるのは持病持ちと老人ばっか」


 「……でも、ニュースでは……」


 母が曖昧に返すと、陽一は言葉を被せた。


 「そのニュースが、嘘だって言ってんの。利権とスポンサーに汚染されてんだよ、全部」


 瑞希は静かに息を吸って、テーブルの向かいに座った。


 「……兄さん、ちょっと言葉選ばないと、相手を傷つけるよ」


 「おお、瑞希先生。お帰り。どうだ、オンライン授業。洗脳は順調か?」


 「違う。教育って、意見を揃えることじゃなくて、考える力を育てること。マスクする・しないも、意見じゃなくて、他者への配慮の話だよ」


 「その“配慮”とやらで、心病んでるやつがどれだけいるか、先生はわかってるか?」


 声を荒げはしなかったが、陽一の語気は冷たかった。

 その瞳には、確かに信念のような光があった。

 けれどそれは、どこか「信じたいものにしがみついている」ような、不安定さもあった。



 夕飯のあと、瑞希は母と台所で食器を洗いながら、小声で尋ねた。


 「……陽一兄さん、ずっとあんな感じなの?」


 「そうね。最初は、ワクチン打つかどうかだけだったのよ。“様子見”って。でも、気づいたら、毎日のように“真実を知れ”って……」


 母は、スポンジをすすぎながら、少し疲れたように笑った。


 「ネットで何かの動画見ては、“これを見ろ”って。なんだか、あの子、戦ってるみたい。見えない敵と」


 「……戦わなくていいのにね。誰も、兄さんを責めてなんかいないのに」


 「それがね、瑞希。きっと、陽一は、“責められてる気がしてる”のよ。社会に、自分の人生に、何かに置いていかれてるって」



 翌朝。

 母の寝室の前に、小さな白い箱が置かれていた。


 中には、折りたたまれたN95マスクと、封を切っていない体温計。


 そして、その上に手書きのメモ。


 > 「無理にとは言わないけど、私は母に長生きしてほしいから、これは置いておきます」

 > ――瑞希


 その夜、母は何も言わなかった。


 でも、食卓についたとき、彼女はマスクをしていた。

 それは、誰かの“意見”に賛成するというより、“想い”を受け取ったという静かな表現だった。



 人は、正しさでぶつかり合うと、かえって遠ざかってしまう。

 けれど、誰かを想う“沈黙”が、かすかな橋になることもある。


 瑞希は、兄の貼り紙をそっと外し、リビングの本棚の裏にしまった。

 「捨てる」のではなく、「見えないところに置いておく」――それは、戦わずに共に生きるための、ささやかな選択だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る