陶芸体験の翌朝。

 工房で山本くんが背後に立った時の、あの温かい手の感触が、まだ指先にじんわりと残っている気がしていた。

 麻美と星野くんも一緒だったとはいえ、あの一瞬の密着は、あまりにも距離が近くて、今も思い出すたびに心臓が忙しく跳ねる。

 彼の存在は、もう気づかないふりでは済まないほど、私の中で確かな輪郭を持ち始めていた。


 出社して自分のデスクへ向かっていると、不意に背後から声をかけられた。

「橘先輩、おはようございます」

 振り返れば、そこにはいつも通り完璧な山本くんの姿。だけどその“いつも通り”さえ、今日は少しだけ眩しく映る。

「お、おはよう、山本くん」

 どうしても返事がぎこちなくなってしまう。すると彼は、そんな私を気にする様子もなく、穏やかな笑みを浮かべて一歩近づいてきた。

「昨日のお礼を申し上げてもよろしいでしょうか」

「え?お礼って…そんな、大げさなことしてないけど」

 首を傾げて答えると、彼は少しだけ視線を落としふっと口元を緩めた。

「陶芸体験、楽しかったです。とても、特別な一日でした」

 その言葉が静かに胸の奥に沁み込んでくる。きっと私にとっても同じだった。だからこそ、彼の口からそう言ってもらえたことが、心のどこかをじんわり温めた。

「そっか…よかった。星野くんも麻美も楽しんでくれたみたいで」

 私がそう返すと、山本くんは小さく頷いた。そしてほんの少しだけ声を落とした。

「それに…先輩の私服姿も拝見できて。普段と違って、とても新鮮でした。素敵でしたよ」

 心臓がドクンと跳ねた。

 彼の視線が、ほんの一瞬だけ私の肩や腕、足元へと滑った気がして、昨日の服装を急に意識してしまう。何の気なしに選んだシャツとスニーカーが、彼の記憶の中で“素敵”として残っているなんて。そう思うと、恥ずかしさと嬉しさがいっぺんに押し寄せてきて、頭がくらくらする。

「そ、そうかな……ありがとう」

 やっとの思いで絞り出した声は、情けないほど小さく震えていた。顔が熱くて、もう視線を上げることもできない。

 山本くんはそんな私の様子を静かに見ていたが、それ以上は何も言わず、いつものように「失礼します」とだけ告げて自分のデスクへと戻っていった。

 彼の後ろ姿を見送りながら、私は自分のデスクに座り込んだ。パソコンの電源を入れる手もどこか覚束ない。

 ほんとに、遠慮なんてまったくしていない。彼の言葉も、視線も、距離の詰め方も。全部が、確実に私の心を揺さぶってくる。

 私の中の“日常”は、もう完全に、山本優斗という後輩に、そして彼からの好意によって、静かに、でも確かに色を変え始めていた。




 その日の午後、私は企画書をまとめるため資料室にこもっていた。ドアを閉めると外の喧騒は遠ざかり、紙をめくる音と自分の呼吸だけが響く。静かな空間。集中できるはずの時間。それなのに、なぜか頭の片隅には朝の山本くんの言葉がこびりついて離れない。

 彼の声が、耳の奥で何度も反響する。あの時、彼はどんな顔で私を見ていたのだろう。俯いてしまったから、彼の表情をちゃんと見られなかった。

 なんで、あんなこと言うんだろ。

 思わず資料をめくる手が止まる。ただの後輩が、先輩の私服姿を褒めるなんて、普通はしない。ましてや「素敵でした」なんて、そんな直接的な言葉を。

 彼の言葉を思い出すたびに、頬が熱くなるのを感じる。あの時、彼の視線が私の全身をなぞったような気がしたのは、気のせいではなかったのかもしれない。

 資料室の窓から、ぼんやりと外を眺める。青い空に白い雲がゆっくりと流れていく。

 山本くんは、誰が見ても優秀な後輩だ。礼儀正しくて、気配りができて、常に丁寧で、完璧な“会社の顔”。だからこそ、そんな彼から向けられる無遠慮な好意が、私をこんなにも混乱させる。

 最初は、ただの気のせいだと思っていた。次に、人懐っこい彼の、先輩に対する甘えのようなものだと。でも、陶芸体験でのあの距離感と、今朝の言葉。

 あれは、もう…。

 彼の言動が、私を異性として見ているからだと、認めざるを得ない状況になっていた。

 麻美にはよく「ふうちゃんは鈍感すぎる」と言われていたけれど、まさか自分が、こんな風に年下の後輩に心を乱される日が来るなんて、想像すらしていなかった。積極的に誰かを好きになることもなく、恋愛なんて後回しで、流れるように毎日を過ごしていたのに。

 気づいたら、こんなにも強く、彼の存在に揺さぶられている。

 資料室の静寂の中で、私は自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いているのを感じていた。山本くんがいない場所で、これほどまでに彼のことを考えている自分に、驚きを隠せない。

 私は、一体どうしたらいいんだろう――。

 企画書の作成はすっかり手につかなくなっていた。彼の存在が、私の日常の全てを侵食し始めていることに、私はまだ気づかないふりをしていたかった。




 資料室から自分のデスクへ戻ると、そこにはもう“いつもの”と呼んでもいいくらい見慣れたマグカップが置かれていた。湯気は立っていないけれど、そっと手を添えると、まだほんのり温かい。

「カモミールティー…」

 思わず小さく声に出す。優しい香りがふわりと鼻に抜けた瞬間、ふと気づいた。私はこんなにも彼の気遣いに支えられているのに、彼自身の好きなものを何一つ知らないということに。

 いつも山本くんは、さりげなく私を気遣ってくれる。それに甘えてばかりで、彼の好みや趣味に目を向けたことがなかった。そんな自分に、少しだけ後ろめたさを感じる。

 ちょうどその時、席を外していた山本くんが戻ってくる気配がした。

「先輩、お疲れ様です。企画書、完成しましたか?」

「山本くん、お疲れ様…」

 彼の労いの言葉に、私は顔を上げた。あなたのことを考えていて集中できませんでした、なんてとても言えない。

「山本くん」

「はい」

 少し迷ってから、口を開く。彼はいつものように真っ直ぐな目で私を見る。

「なんで、私がカモミールティー好きなこと知ってるの?」

 予想外の質問だったのか、彼は一瞬だけきょとんとして、それから少しだけ視線をそらした。

「いえ、それは……その……」

 珍しく返事の歯切れが悪い。何かを探るように視線が空中をさまよう。

 やがて、ゆっくりと息を吐いて、ぽつりとこぼした。

「……新入社員時代、一度だけ、先輩のデスクにカモミールティーのティーバッグが置かれていたのを見たことがあって」

 えっ、と私は思わず彼の顔を見る。

 そんな時期、確かにあった。家から持ってきたティーバッグを気まぐれで置いていた頃。でもそんな小さなこと、本人の私ですら忘れていたのに。

「そんな前から……?」

 ぽつりと漏れた私の言葉に、彼は黙って、少しだけ笑った。

 私を見ていてくれたその時間の長さに気づいて、胸の奥が少しざわついた。嬉しさと、驚きと、申し訳なさが、一緒になって押し寄せてくる。

 気づいたら、また口が勝手に動いていた。

「……ねえ、山本くん」

「はい」

「私、山本くんが好きなもの、全然知らないなと思って」

「え…?」

 彼の目が大きく見開かれる。その反応に、今度は私が驚く番だった。

「なんで、そんなに驚くの?」

 そう尋ねると、彼は照れたように少しだけ笑って目を細めた。

「…いえ、先輩が俺に興味を持ってくれたことが、嬉しくて」

 たったそれだけのことなのに、胸の奥がとくんと音を立てた。

 私、確かに今、彼のことをもっと知りたいと思っている。それは、今までただの後輩だと思っていた彼に対して抱いたことのない感情だった。

「そ、そっか…いや、その、だから、もしよかったら、山本くんが好きなもの、教えてほしいなと思って」

 私は照れ隠しをするように視線をマグカップに落とした。心臓がドキドキと鳴り止まない。こんな風に自分から彼のことに踏み込むなんて、今までなら考えられなかったことだ。

 山本くんは少しの間何も言わなかった。けれど、やがて彼の穏やかな声が響いた。

「そうですね…コーヒーはブラックが好きですけど、一番好きなのは、ハチミツを入れたココアです」

 そう言って、彼は少しだけ照れたように視線を逸らした。その答えに私は思わず目を瞬かせる。そんな、やさしい飲み物。完璧な彼が、そんな甘いものを好むなんて、ちょっと意外で、でもなんだか可愛らしい。

「それから、休日は…普段とは違う場所へ出かけて、写真を撮ったり、静かに本を読んだりすることが好きです」

 彼の声はいつもと同じ丁寧な口調だったけれど、ひとつひとつが私に向けて語られていると思うと、言葉の温度まで変わって感じられた。

 知らなかった彼の一面に触れるたび、胸の奥がじんわりと温まっていく。

 今この瞬間も、彼のことをもっと知りたい、そんな気持ちが静かに広がっていくのを感じていた。


- - -


 数日が経った。

 オフィスでは相変わらず、山本くんの“遠慮のない”アプローチが続いていて、私の心臓は休む暇もないまま。でも、以前のようにただ慌てたり戸惑ったりするだけではなくなっていた。彼の言動のひとつひとつに、ちゃんと優しさがあって、私に向けられた気持ちがあることに、ようやく気づけるようになってきた。


 そんなある休日。予定もないままのんびり過ごしていた私は、ふらっと近所のスーパーへ買い物に出かけた。週末のスーパーは家族連れやカップルで賑やかだ。人の波にまぎれながら、今夜の夕飯は何にしようかなと、なんとなく練り物コーナーを通り過ぎたとき、ふと、ある棚に目がとまった。

 ハチミツコーナーだった。

 いろんな形の瓶に入ったハチミツが、種類ごとにずらりと並んでいる。アカシア、レンゲ、クローバー、百花蜜…。こんなにたくさんあるなんて、今まで気にしたこともなかった。

 山本くんはどんなハチミツが好きなんだろう。そう思った途端、私は立ち止まっていた。瓶を一つ手に取り、ラベルを読んでは戻し、また別の瓶を手に取る。色が濃いのはやっぱり少し苦味があるのかな。彼の好きな“ハチミツ入りココア”に合うのはどれだろう。気がつけば、真剣なまなざしで棚を見つめていた。

 なんで私、こんなに真剣にハチミツ選んでるの…。

 以前の私ならたぶん通り過ぎていた場所だ。それが今では、彼の好きなものをもっと知りたい。何かしてあげたい。そんな気持ちに引っ張られるように、自然とここに立っている。山本くんという存在が、気づかないうちに、私の生活の中にふわりと入り込んでいた。

 だけど、選ぶとなると種類が多すぎて迷ってしまう。棚の端に小さなパンフレットがあるのを見つけて手に取ってみた。「ハチミツの種類と特徴」と書かれたページをめくる。

「アカシアはクセがなくて飲みやすい……レンゲは優しい甘さ……」

 呟きながら、スマホで「ココア ハチミツ 相性」と検索する。出てくる情報は多すぎて、ますます迷いは深まるばかり。

 うーん、やっぱり詳しい人に聞いたほうが早いかも。

 私は近くで品出しをしていた店員さんに声をかけた。

「あの、すみません。ハチミツについてちょっとお聞きしたくて……」

 すると店員さんはにこやかに頷いて、「ココアに入れるならこれがおすすめですよ」と、いくつか紹介してくれた。それぞれの風味や使い道を聞いて、私は「クセがなくてどんな飲み物にも合いますよ」と教えてもらったアカシアのハチミツを手に取った。

 レジへ向かう道すがら、小さな瓶をそっと抱える。不思議と心がぽかぽかしていた。その小さなガラス瓶は、私にとってただの甘い調味料じゃなくて、新しい「楽しみ」を運んできてくれた気がした。




 スーパーを出た私は、暮れかけた空の下、いつもの帰り道を歩きはじめた。西の空が、少しずつ茜色に染まり始めていて、夕飯の献立をぼんやりと考える。買い物袋の中では、アカシアのハチミツが小さく揺れていた。


 その時だった。

 ふと、背後から聞こえてくる足音に違和感を覚えた。


 ……さっきから、ずっと同じ足音がしてる気がする。

 気のせいかもしれない。でも、どうしても気になる。私は道の端に寄ってそっと立ち止まってみた。すると──後ろを歩いていた誰かも、私の少し手前で足を止めた。

 心臓が、ドクン、と跳ねる。偶然とは思えなかった。

 私はもう一度歩き出し、今度は少しだけ早足になってみる。すると背後の足音もそれに合わせて速くなる。背中に冷たい汗が伝った。

 ……誰?どうして?

 どんどん強くなる不安が、胸の奥でじわじわと恐怖に変わっていく。周囲の人の姿はまばらになっていく。もう少しでアパートの近くまで来てしまうけれど、そこに入るには、人気のない細道を通らなくてはいけない。

 このままじゃ──

 私は手に持っていたバッグから慌ててスマホを引き抜いた。誰かに連絡しなきゃ。助けを呼ばなきゃ。……でも、誰に?

 麻美?でも今連絡しても、間に合わないかもしれない。

 警察?でも、まだ“何か”されたわけじゃない。

 そんなふうに頭の中がぐるぐるする中で、自然と浮かんだのは、あの真面目で頼りがいのある後輩の顔だった。


 山本くん。


 気づけば、私は通話履歴から彼の名前を探していた。指が小さく震える。でも躊躇っている時間はない。発信ボタンを押し、耳にスマホを押し当てる。

 プルルル……。プルルル……。

 出て……お願い、出て……。

 祈るような気持ちで耳を澄ませていた時──

「はい、山本です」

 その声を聞いた瞬間、張りつめていた感情が一気に緩んで、目の奥に熱いものが込み上げてきた。

「や、山本くん……!」

 声が震えてしまう。うまく言葉にならない。でも彼にはきっと伝わったのだろう。受話口の向こうから、焦りを含んだ声が返ってきた。

「先輩!?どうなさいましたか、その声は……!?」

「あの、私、今……誰かに、つけられてる、みたいで……」

 なんとか伝えたその言葉に、彼はすぐさま反応した。

「場所はどちらですか!?今すぐ向かいます!」

 声の調子が一変した。鋭さと、落ち着きと、頼もしさが混ざった声。私は現在地をできるだけ正確に伝えた。

「わかりました。先輩、落ち着いてください。できるだけ人通りの多い場所へ向かってください。決して後ろは振り返らないで。俺が必ず行きますから」

 彼の言葉が不思議と私の心を落ち着かせた。私は言われた通り、人通りの多い大通りを目指して必死に足を動かした。背後の足音はまだすぐそこにある。けれど山本くんが来てくれる。その事実だけが、今の私を支えていた。


 息を切らし、半ばパニックになりながらも、私は山本くんが指定してくれた大通りへと向かった。心臓が喉元まで飛び出しそうなくらい激しく脈打っている。後ろの足音は、まだぴったりとついてきている。

 その時だった。

「先輩!」

 聞き慣れた、けれどいつもよりずっと力強い声が、背後から響いた。振り返る間もなく、腕をぐっと引かれる。

「山本くん…!」

 息を切らしながら立っていたのは、少しだけ乱れた髪と、鋭く光る瞳の彼だった。

 私の腕をしっかりと掴んだまま、山本くんは背後を睨みつける。静かな彼からは想像できないほど真剣な眼差し。まるで獲物を一瞬も逃すまいとする猛獣のようだった。

 その視線に怯んだのか、後ろにいた誰かの気配がふっと離れていった。気がつけば足音は消え、姿も見えなくなっていた。

「先輩、大丈夫ですか?」

 彼の手が私の肩を掴み、心配そうに覗き込んでくる。その顔を見た瞬間、張りつめていたものがぷつんと切れたように私は力が抜けて、その場にへたり込みそうになった。

「だ、大丈夫……じゃ、ないかも……」

 震えながら答えるのがやっとだった。足ががくがくして、立っていられる自信もない。

「大丈夫です。もう大丈夫ですから。俺がついてます」

 そう言って山本くんは私の背中をそっと撫でてくれた。優しくて、しっかりとした手だった。そのぬくもりが、私の震えを少しずつ静めてくれる。

「先輩、このままここにいるのは危険です。幸い、俺の家がこの近くなので、一旦避難しましょう」

 彼の言葉に、私はハッと顔を上げた。

「え、でも…」

「今、先輩を一人で帰らせるわけにはいきません。それにまだ犯人が近くに潜んでいる可能性もあります。安全な場所で落ち着いてから、警察に連絡するなり、どうするか考えましょう」

 彼の目は一切の迷いなく、私を真っ直ぐに見つめていた。その強い意志に、私は何も言い返すことができなかった。彼に身を任せるしかない、と本能的に感じた。

 山本くんは私の手からそっと買い物袋を受け取り、もう片方の手で私の手を引いた。彼の手は驚くほど温かかった。ひんやりと冷えた私の指先を包むようにしてくれる。

 薄暗くなりかけた道を、山本くんの大きな背中を追って歩く。彼の背中だけが確かなもののように見えた。

 山本くんの家……。

 足元を見つめながら、また別の鼓動が胸の奥で静かに鳴りはじめる。

 怖さとは少し違う、けれどやっぱり強くて、抗いがたい高鳴りだった。


- - -


 山本くんのマンションは、思っていたよりずっと新しくて綺麗だった。

 エントランスのオートロックを通り抜けてエレベーターに乗る間も、緊張で胸の鼓動が収まらない。部屋のドアが開いた瞬間、それはさらに早くなった。

「どうぞ、先輩。中へ」

 穏やかな声でそう言われて、私は恐る恐る玄関を跨いだ。彼の靴が一足だけ、きちんと揃えられていて、それだけでも彼らしさがにじみ出ている気がする。

 部屋の中はシンプルで無駄がなく、けれどどこか温かい雰囲気が漂っていた。物は少ないけれど整っていて、掃除も行き届いている。

 リビングに入ると、大きな窓から夕焼けの光が差し込んでいて、部屋全体が淡いオレンジ色に包まれていた。

「こちらにどうぞ」

 促されて、私はソファに腰を下ろした。買い物袋はそっとその隣に置かれる。

 山本くんはすぐにキッチンへ向かい、温かいお茶を淹れてくれた。湯気が立ち上るカップを差し出され、私は両手でそれを受け取った。

「大丈夫ですか、先輩。まだ少し、顔色が優れませんね」

 彼の声は変わらず穏やかで、けれどどこかいつもより柔らかい。

「ありがとう、山本くん。もう、大丈夫……だと思う。山本くんが来てくれて、本当に助かったよ」

 そう伝えると、彼は安心したように小さく頷いて、私の隣に少しだけ間を空けて腰を下ろした。

 温かいお茶と、静かな部屋。心が落ち着いていくのを感じながらも、同時に、彼の部屋に二人きりでいるということがじわじわと実感となって押し寄せてきて、今度はまた別の緊張が胸に広がっていった。

 しばらく、二人の間に静けさが流れた。何を話せばいいのか、うまく思い浮かばない。

 でも、その沈黙を優しく破ってくれたのは、やっぱり彼だった。

「そういえば先輩。お買い物に行かれていたんですね。何を買われたんですか?」

 そう言って、彼の視線がそっと私の隣に置かれた袋へ向かう。

「あ……えっと……」

 私は思わず言葉に詰まった。そうだ。あのハチミツ。彼のために買ったもの。こんな風に見つかってしまうなんて、まったく想定していなかった。

 ごそごそと袋を探って、小さな瓶を取り出す。手のひらにすっぽり収まるくらいの、ころんとした瓶。光に透けて、淡い黄金色がやさしく揺れていた。

 山本くんに見せると、彼の目がぱちりと大きく見開かれた。まるで、信じられないものを見たような、そんな顔。

「え……もしかして……」

 震えるような小さな声。驚きと、どこか照れたような色が混ざっていた。

「うん…山本くんが、ハチミツ入りのココアが好きだって言ってたから、それで…」

 そう答えると、彼の瞳にじんわりと光が灯っていくのがわかった。嬉しさが少しずつ滲み出てくるように。

「そう、だったんですか……わざわざ、俺のために……」

 呟くような声に、抑えきれない喜びが滲んでいて、その素直な反応がなんだかくすぐったい。

「ありがとうございます、先輩。本当に嬉しいです」

 彼は瓶をそっと受け取って、大事なものを扱うように、両手でしっかりと包み込んだ。

 その仕草がなんだか可愛らしくて、けれど同時に胸がぎゅっとなるくらい、まっすぐで。

 彼のそんなところに、私はまた一つ、心を奪われていくのだった。

「せっかくですので、今から淹れてもよろしいでしょうか?一緒に飲みませんか、先輩」

 そう提案した山本くんの声に、私は思わず「え?」と小さく声を漏らした。

 まさか、こんなタイミングで、彼と一緒にココアを飲むことになるなんて。

「あ、うん。ありがとう」

 戸惑いながらも頷くと、山本くんはふっと笑って、すぐにキッチンへと向かった。

 やがて、湯気と一緒にふわりと漂ってきた甘い香りが、部屋の中をやさしく包み込んでいく。

 ほどなくして戻ってきた彼は、両手に湯気の立つマグカップを持っていた。ローテーブル越しにひとつを差し出され、私は両手で受け取った。

「どうぞ、先輩」

 彼はそのまま、さっきよりも少し近く、私の隣に腰を下ろした。その距離に、なんとなく胸がそわそわする。

 マグカップに口をつけると、甘さがふわっと広がった。体が芯からじんわりと温まっていく。こうして飲むココアが、こんなにも優しい味になるなんて。そんなことを思いながら、私は静かに息をついた。

 しばらくは、二人とも無言だった。

 けれど、山本くんがふいにカップをテーブルに置き、そっと私の方へ体を向けた。その視線が、まっすぐこちらを向いているのに気づいて、私ははっと息を呑む。

 昼間、彼に見られるたびに感じていたざわざわした気持ちとは少し違う。今は、胸の奥にぽとりと落ちて、静かに染みていくような、そんな感情だった。

「先輩」

 山本くんが、ゆっくりと口を開いた。

「こんな時に、すみません。……いえ、こんな時だからこそ、かもしれません」

 彼は一度、私の手元へと視線を落とし、また顔を上げてまっすぐに見つめてくる。その瞳に宿る熱が、言葉よりも先に伝わってくるようだった。

「先輩に何かあったらと思ったら、俺……」

 そこで言葉が途切れた。

 けれど、続きを言わずとも、彼の手がそっと私の指先に触れて、その大きな手で優しく包み込まれたことで、すべてが伝わってきた。

「俺は、先輩のことが好きです」

 夜の静けさに、彼の言葉がはっきりと溶け込んでいく。それは、以前にもらった言葉と同じ、まっすぐで揺るがない想いだった。

 でもあの時と違うのは、私の心が、もうその想いに戸惑っていなかったこと。驚きよりも先に、彼の眼差しをちゃんと受け止めることができている自分がいた。

「……山本くん」

 私は、彼の手の中にすっぽり収まった自分の指先を見つめた。そのぬくもりから、彼の気持ちが痛いほど伝わってくる。

 そして私の中にも、彼に向けた確かな感情が芽生えていることを、もう誤魔化せなかった。

「私……山本くんのこと……」

 言葉にしようとした瞬間、胸の奥がキュッと締めつけられる。

 はっきりと「好き」と言い切るには、ほんの少しだけ、あと一歩の勇気が足りなかった。

「もうちょっとで、お返事できそうだから……」

 震える声で、それでも気持ちだけはまっすぐに伝えようとした。

「だから、あと少しだけ……時間をちょうだい」

 私の言葉に、山本くんは一瞬だけ目を伏せた。

 だけど、すぐにふわっと、温かい微笑みを浮かべる。

「……わかりました」

 そう答えた彼は、そっと私の手を離した。

 その瞳に宿っていたのは、ほんの少しの寂しさと、それ以上の優しさ、そして希望のような色だった。


- - -


 翌朝。

 会社に着くと、私はなんとなくそわそわした気持ちで山本くんのデスクに目を向けた。

 いつもなら私が席に着くより少し早く「おはようございます、先輩」と声をかけてくれるのに、今日は彼の背中だけが見えていた。パソコンの画面を真剣な顔で見つめていて、私の姿には気づいていないようだった。

 あれ…?いつもならここで…。

 彼の横を通る時、少しだけ期待してしまっていた自分がいた。けれど彼は顔を上げないまま、指先だけを静かに動かしている。


 仕事中も、いつもなら何かと理由をつけて私のデスクに近づいてきたり、休憩時間にさりげなく話しかけてきたりするのに、今日はそれが一切ない。必要なこと以外、彼は私に一言も話しかけてこない。


“もう少しだけ時間をちょうだい”。

 昨日、あんなふうに言ったから……?

 自分の返した言葉が、急に胸の中で重く響いてくる。

 曖昧だったのかな。期待を持たせたまま、彼の気持ちを宙ぶらりんにさせてしまったのかもしれない。


 昼休み。麻美とランチに出ても、私はどこかぼんやりしていた。

「ふうちゃんどうしたの?なんか元気ないっていうか……山本と何かあった?」

 ズバリ聞かれて、心臓がびくりと跳ねた。

「な、なんでもないよ。ちょっと寝不足なだけ」

 苦しいくらい不自然な返事をしながら、私は無理に笑った。

 麻美は疑うような目でこちらを見ていて、その視線から逃げるように私は目を伏せた。


 気づけば、彼が話しかけてくるのを待っている自分がいた。

 あんなに落ち着かないって思っていたのに、なくなってみると、どうしようもなく寂しい。


 ふとした瞬間に、視線が彼のデスクを追っている。パソコンの画面を見つめている横顔、筆記用具を手に取る仕草、ふと椅子にもたれる背中。

 何も声をかけてこない、けれど、そこにちゃんと存在する彼が、妙に遠く感じられた。


 そんな状態が、数日続いた。


 山本くんは、挨拶と業務連絡以外、私とほとんど話さなくなった。

 休憩室では少し離れた席に座るか、そもそも顔を見せない日もある。

 まるで私が「時間がほしい」と言った瞬間から、彼の中でなにかがストンと切り替わったみたいに。


 ……これって、どういう意味なんだろう。

 私はその答えを、いくら考えても見つけられなかった。けれど、わかることがひとつだけあった。


 ──私は、山本くんのことを考えずに過ごせる時間が、もうほとんどなくなっていた。

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