第28話 『あなた』


『あなたがいない』、それだけをずっと覚えている。


水面に映った柳の木に誘われて、月の出た夜、川に入った。ネグリジェが水を吸って、肌に張り付くのを感じていた。


もう一歩、もう一歩……。ふくらはぎ、ふともも、腰、胸、肩。歩くごとに、水位は増した。


顎の下まで水に浸かって気がついた。

この川はさほど深くなかったはず。子どもたちがみずあそびをしにやって来るほど穏やかで、今みたいに流れに押されたりしないはず。川辺に柳なんてなかったはず。


はず、はず、筈……、本当は覚えていたはず。


『あなた』なんて、初めからいなかった。



記憶にない川の中を歩き続けて、気がつけば海に出ていた。


月があまりにも輝いているから、夜空の星はおろか、振り返った街の明かりすらも見えなかった。


いや、違う。あれは月じゃない。『あなた』だ。


沖のほうへ歩み進めた。いつしか体は浮き上がり、肩、胸、腰、ふともも、ふくらはぎ、次々と海面から姿を現した。それでも上へ昇っていく。手を、高く伸ばしている。


『あなた』に指が触れた、とたん、とぷん。

指先が崩れて海に落ちた。

もう一度手を伸ばす、触れる、崩れ落ちる。繰り返すうち、とうとう腕がなくなった。


やがてほとんど全てが崩れ落ち、唇だけが残った。『あなた』に口づけし、とぷん、海に沈んだ。


ーーーーそんなあなたの姿を、わたしは眺めていた。



『あなた』なんていないのだと、あの日、わたしはあなたを笑った。

今ならわかる。わたしも『あなた』に会いたい。記憶にない、存在しない『あなた』に。


だから、あなたにお願いします。

わたしが『あなた』に会いに行く一部始終を、どうか見守ってほしいのです。そうしてできる限り長く記憶に留めておいてください。


そうすれば、あなたもいずれ『あなた』に会いに、わたしたちと同じことをするでしょうから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る