第25話 花ひとつの香り


ある、とても寒い日のこと。


駅前とはいえ客足も外を歩く会社員たちも少なくなって、そろそろかと閉店作業を始めたところへ、ひとりのお客さんが店に入ってきた。


風に煽られたのか髪は崩れていたけれど、トレンチコートと大きめのショルダーバッグ、キャンパス風スニーカーはきちんとその人に合っていて、顔がというより雰囲気が綺麗な人だった。目元は疲れているようで、だけど表情はそれほど暗くはなかった。


その人が店の扉を開けた瞬間、花屋特有のみずみずしいような土っぽいような匂いが外気に冷やされた。いらっしゃいませと声をかけると、小さく会釈をされた。こじんまりとした仕草だった。


その人は少し店内を見て回って、黄色い花を1束手にとった。しばらく花を見つめて、やがて柔らかに微笑んだ。


これ、いただきますと振り返ってカウンターへ歩いてきたので、慌ててレジにまわった。


その花は確か、フリージアだったと思う。


私はあの日がアルバイト最終日で、花屋最後のお客さんだったからよく覚えている。

そのお客さんが帰られて、再び店の中が花の匂いに包まれたころ、店長が奥から出てきてそろそろ閉めようかと言った。


私は店長から最後のお給料をいただいて、ありがとうございましたと頭を下げた。それは「今までお世話になりました」と「最後にあのお客さんに出会えてよかったです」のふたつの意味が含まれていた。


今はもう、私も周囲のサラリーマンと同様に、毎日スーツを身につけ電車で出勤する生活を送っている。花屋の中から眺めた退勤ラッシュの光景のなかに紛れて、まるで何の特徴もないみたいに。


だけどあの花屋の前を通るたび、冬の風のなかに黄色い花を見かけるたび、みずみずしいような土っぽいような花の香りと共に、フリージアと一緒に帰っていったトレンチコートの後ろ姿を思い出すのだ。

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