第18話 あの子の人魚


人魚が家の近くの浜にやって来たときの、彼女の喜びといったらなかった。


浜の岩場に身体を伸ばし、人魚は街を眺めていた。彼女はその、気高く凛々しい横顔に恋をしたも同然であった。もしも成長した彼女が「初恋はいつか」と尋ねられたら、真っ先に頭に浮かぶのは人魚の姿だろう。


薄いヴェールのような尾ひれを波に浸け、沖から吹く湿った風にブロンドの髪を靡かせた、灰色の空の下でも全く色褪せない鮮やかな出で立ち。まるで海の底には神の世界があって、そこからこの下界へ上がってきてのだと言いたげな、ツンと上向きにした顎と、薄い唇。人間のような鼻筋はなく、鼻腔が細くあいているだけだ。

少し気味悪く感じるかもしれないが、だからこそ彼女の目を引いたともいえるだろう。


ともかく、彼女は人魚をひと目見た五分後には、お小遣いを握りしめ水槽を買いに走っていた。店の大人に「一番大きな水槽をください」と告げた瞳は、沈没船から引き揚げられた宝石のごとく輝いていたという。


彼女と人魚の出会いは、そんな一瞬のものであった。同時に、彼女と人魚の暮らしというのもまた、あまりに短かった。


はじめのころ、彼女は熱心に人魚の世話をした。毎晩水槽をすみずみまで洗い、こまめに声をかけ、日に何度も微笑みかけた。


狭い世界に閉じ込められた人魚は一か月ほどの間表情を強張らせ、彼女の笑顔に何の反応も示さなかった。

ただ海とは比べものにならない小さな空間で、水の泡を尾ひれで叩くようにして泳いだ。その様子を眺めるのが、小学校から帰った彼女の楽しみだった。友人たちの誘いを蹴ってまで、彼女は放課後を人魚とともに過ごした。


ある日の休み時間、彼女は仲の良い友人に、遊びに行かないかと誘った。友人は驚いて、人魚のために帰らなくていいのかと尋ねた。彼女はにこりとして「もう、いいの。どうでも」と答えた。


水槽は濁った。彼女が人魚の世話をすることはなくなった。水槽の蓋には分厚い辞書が二冊おかれていた。理由など誰にもわからなかった。


水槽は濁った。人魚の姿は見えなくなった。あの艶やかなブロンドの髪がどこにあるのかもわからず、光って見えるほどに白い肌もそこにはなかった。水槽は静かに、ただ床に鎮座しているだけだった。


どれほどの年月が流れただろうか。彼女の背は高くなり、背中に負っていたランドセルは押し入れの奥で埃を被っている。彼女は電車を乗り継いで行く学校に通い、週末には近所の店の手伝いをして小遣いを稼いだ。


八月のある昼下がり、海岸で釣りをしていた男は、少女が大きな直方体を丘の上の展望台に運ぶのを見たという。しばらくして、崖の下の海に控えめな水柱が立った。何事かと崖を見上げると、逆光のなかで誰かが海を見下ろしていた。


なぜだか殺人現場でも目撃したような気分になった彼は早々にそこを離れ、もう二度と近づかなくなったそうだ。

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