第3話 ココロ=コード ~愛はモザイク模様~


どうしてかな、捨てられなかったの。あなたがくれたスケジュール帳。

もう何年も前のこと、朝の教室で、あなたはそれを差し出しました。

「一番乗りのご褒美」

と、真っ黄色の表紙の手帳を。


その時に気づいた感情を、わたしはずっと覚えています。おばあちゃん家の匂いが鼻によみがえるように、誰かが吐いた心無い言葉が脳裏をよぎるように、時たまわたしに襲いかかるのです。


ねえ、先生。


  *****


「なあ、澤井」

「はい」

「そこに貼ってあるQRコード読みとれる? 俺のやとどうすればいいのかわからん」

「大丈夫ですけど、普通にカメラで読めますよ」

「えっ」


目を丸くしたあなたがもたもたと自分のスマホを取り出す間に、わたしはカメラアプリを開いてコードを撮影した。

「はい、どうぞ」


小さなスマホ画面を、向かいあって座る二人の真ん中に置く。表示されたウェブページには、季節のおすすめメニューが全面に推されてる。


あなたはずいっと顔を寄せて「ほーん」などと呟きながら画面を送っていった。一緒に見るふりをしてわたしは、あなたのまつげを眺めていた。色素の薄い目を盗み見ていた。


「おし! 俺は決めた。澤井は?」

「じゃあコーヒーを」

そう答えて画面を閉じようとしたわたしの手を、あなたの少し乾燥した手のひらが掴む。


「何言ってるん。遠慮せず好きなの頼めよ、ハタチのお祝いみたいなもんやから」

「お祝いですか」

「そーよ。ま、それがファミレスなんて嫌やんな、確かに」


何もなかったように笑いながら手を離して、椅子の背にもたれかかるあなたとは裏腹に、わたしの手のひらは汗で湿っていた。


「—— そんなことないです。ありがとうございます」

「おう。で、決めた?」

「それじゃ...... ケーキセットで」

「三百円上がっただけかい! 食べたいんならええけどさ。ほな注文するよ」


呼び出しボタンを押して、あなたはさも楽しそうに腕を組んだ。

「いやあさ、ほんまはせっかくやしね、お酒でも連れてこうかと思っててんけど。

でもそういう店やと夜とかになっちゃうやろ。さすがに—— あハイ、ケーキセットとエビグラタンひとつずつ、お願いします」


やって来た店員に注文を告げ、なおもしゃべり続ける。


「暗くなってからはさすがに心配やからなあ。女の子ひとりで夜道を帰らせるわけにもいかんやろ」

「そうですか?」

「そーよ」

「そうですか」


今日、先に『相談乗ってください』と連絡したのはわたしだ。あなたはそれを覚えているのかいないのか、三秒も間をあけずに話を広げていく。だけど、それでよかった。会って相談しなきゃいけない悩みなんて、本当はないのだから。


「な、思ってたけど、澤井のスマホきれいやんなあ。俺のヒビ入っとるから見づらくて、やっぱ澤井ので読み取ってもらってよかったわ。けどQRコードってさあ、こんなモザイクに情報詰め込まれてるのがいまだに不思議でしゃーないねんよね」

「そうですか?」

「そーよ」

「そうですか」


二秒黙ったあと、あなたはちらりと厨房の方に視線をやって、

「澤井」

優しい声で呼んだ。

「はい」

「ハタチおめでとう」


細めた目で真っすぐに見つめられ、思わず目をそらした。その先に、あなたの左手があった。


薬指にはめられた銀の指輪を、わたしは何年も前から知っている。


「—— ありがとうございます。先生」

頭を下げたと同時に、注文したものが運ばれてきた。ケーキセットのコーヒーを受け取って、あなたは「渋いなあ」と笑った。


あつあつのグラタンを頬張るあなたは至っていつも通りで、空腹も感じないほど緊張しているのはきっとわたしだけ。チョコレートケーキの濃厚な甘さが、心と胃に溜まっていく。


マグカップに口をつけた。コーヒーの苦みは何も癒してはくれない。


先生と目があう。


「おいしいです」

そう言ってわたしはほほ笑んだ。テーブルに貼られたモザイク模様のように、笑顔の裏にこの愛を隠して。

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