第42話 月乃と一緒なら
「ひま」
柔らかい声と同時に、すっかり慣れてしまった唇を感じる。目を開けると、瞼の腫れた月乃が笑っていた。
「おはよう、ひま」
部屋の電気はつけっぱなしだったけれど、既に外は室内と同程度に明るい。
目だけを少し動かして時計を確認すると、午前11時過ぎだった。
「おはよう、月乃。月乃も今起きたの?」
「ううん。一時間くらい前に起きて、ずっとこうしてた」
甘えるように、月乃が私の頬にキスをする。布団と月乃の温もりでぽかぽかだ。
ベッドから出たくなくて、ぎゅ、と月乃を抱き締める。
「……もうちょっと、こうしてていい?」
「うん。私もそうしたいって思ってた」
ただごろごろしているだけなのに、月乃が一緒だとすごく嬉しい。
きっと、幸せってこういうことなんだろうな。
寝たり、ご飯を食べたり、そういう当たり前のことが全部、月乃と一緒なら幸せになるんだ。
「……私、なんかまた眠くなってきたかも」
「うん。寝ていいよ。ひまが起きるまでここにいるから」
◆
「さすがに起きなさい、日葵!」
次に目を覚ましたのは、お母さんに布団をはぎとられた瞬間だった。慌てて室内をきょろきょろと見回すと、気まずそうな表情の月乃がベッド下に座っている。
「……え?」
「もうお昼なの。芳江さんがご飯用意してくれてるのよ」
「お、お母さんは?」
「私は夜中に一回帰って、さっきケーキ屋さんに寄ってからきたの」
あ。そういえばお母さんの服装、パジャマじゃなくなってる。ちゃんとメイクもしてるし、髪だってセット済みだ。
「顔洗って、早く下りてきて。月乃ちゃんもごめんね? この子、寝起きが悪くて」
お母さんが月乃に向けた表情が柔らかくて、そのことにすごく安心した。ほっとしていたら、早く! とお母さんに急かされてしまったけれど。
お母さんが部屋を出ていくと、月乃がごめんね、と小声で謝ってきた。
「そろそろ起こさなきゃとは思ったんだけど、ひまが気持ちよさそうに寝てたから」
「ううん。それよりお腹空いたよね。ケーキもあるとか最高じゃん。早く下りよ?」
ベッドから下りて、月乃の手を握る。暖房の効いていない廊下に出ると、身体が震えるほど寒かった。
居間からはお母さんと芳江さんの楽しそうな話し声が聞こえる。
なんか昨日、一人で家を飛び出そうとしたことがずっと前のことみたい。
なんで私、最初からお母さんに頼らなかったんだろう。芳江さんにも、ちゃんと話そうとしなかったんだろう。
「月乃」
階段を下りながら、そっと月乃の手を握る。
私の手はまだ、一人で月乃を守れるほど大きくない。
「……芳江さんと話そう。きっと芳江さんは、月乃の話を聞いてくれる大人だよ」
月乃の母と違って、芳江さんは月乃のことを本気で心配しているし、大事に思っているはず。確かに月乃の保護者は母親だろうけれど、だからといって、月乃が一人で母親と向き合う必要はないんじゃないだろうか。
「うん。……私も、そうしようって思ってた」
◆
芳江さんが用意してくれた昼食は、温かい豚汁と天ぷらだった。とり天、さつまいも天、海老天、舞茸天……と、いろんな天ぷらが大皿に盛られている。
そして炊き立ての白米からはほのかに湯気が上がっていた。
「美味しそう……!」
「おはよう、月乃、日葵ちゃん。いっぱいあるから、好きなだけ食べて」
「はい! いっぱい食べます!」
お母さんが芳江さんの隣に座っていたから、私達は迷いなく隣同士に座れた。
いろいろと聞きたいことも話したいこともあるけれど、まずはご飯だ。ちゃんと寝てちゃんと食べないと元気は出ないもん。
「日葵、塩あるよ」
「あ、お母さんありがとう」
私がお母さんから塩の瓶を受け取ると、月乃が不思議そうに首を傾げた。
「私、てんぷら塩派なの。月乃は天つゆ?」
「……塩で食べたことないかも」
「食べてみて! さつまいも天とかすっごく合うから!」
私が勧めた通りに、月乃はさつまいもを塩につけて食べた。美味しい、と笑った月乃を見たら、私まで美味しい物を食べたような気持ちになる。
「月乃、もっといっぱい食べて」
「……うん」
お母さんに見られながら月乃と喋るのは、ちょっぴり照れ臭い。だけどお母さんも幸せそうな顔をしていたから、これはこれでいいような気もした。
◆
「じゃあ日葵、帰るよ」
食後のケーキを食べ終わると、お母さんがいきなり立ち上がった。
待って、と言いかけた私の口をお母さんが手のひらで塞ぐ。
「一時間くらい経ったら、また連れてきてあげるから」
お母さんの視線は芳江さんに向けられている。きっと大人二人で決めたことなのだろう。
できれば私が一緒に芳江さんと話してあげたかったけど……そうだよね。まずは、月乃が芳江さんと二人で話さなきゃ。
「月乃。後でまた、ケーキでも買ってくるから!」
「……ありがとう。でも、もうケーキじゃない方がいいかも」
「じゃあドーナツにする! ね、お母さん。いいよね!?」
「はいはい。ケーキでもドーナツでも、なんでもいいから」
またね、と手を振ってお母さんと一緒に家を出る。車に乗り込むと、お母さんが急に私の頭を撫でてきた。
「お母さん?」
「日葵も大きくなったなあって思ったの」
「……今?」
「今。ちゃんと人を愛せる子に育ったんだって思ったら嬉しくて。まあ、夜中に飛び出そうとしたり、あまりにも月乃ちゃんしか見えてないのは心配だけど」
「……それはごめん」
まったく、と笑って、お母さんが車を動かした。車内に流れ出した歌は、数カ月前に私が好きだと伝えたものだ。
「日葵。日葵には私もお父さんも飛鳥もいるし、友達だっている。それを忘れないで。月乃ちゃんを大事にすることと、二人だけの世界に入り込むことは違うから」
「……うん」
頷くと、この話はもう終わり! とお母さんが明るく言ってくれた。
「じゃ、ドーナツ買いに行こっか。代金は日葵のお小遣いから引いとくからね!」
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