第20話 蘇我蝦夷の専横
乙巳の変の原因とされるのが蘇我蝦夷の専横だが、どのようなことがあったのかを日本書紀から拾い出してみよう。
蘇我蝦夷が王族に逆らう記述が最初に見えるのは舒明天皇紀である。
推古天皇の時代に出された憲法十七条のうち、第八条に定められた朝参を群臣たちが守らなくなっていたため、舒明天皇があらためて次のように要求した。
――群臣や王宮に仕える者たちが朝廷への参入を怠っている。これから朝六時に来て十時以降に退出するように。その時刻は鐘を叩いて知らせるように。
この舒明天皇の要求に、蘇我蝦夷は従わなかったというが、一方で、蘇我蝦夷以外の群臣も朝廷への毎日の参入を怠っていたという事実が浮かび上がる。
決まった時間に群臣が集まって政務を行うことは、官人として王族に仕えることの第一歩である。だからこそ厩戸王は憲法十七条に定めたのだが、舒明天皇の時にはすでに形骸化していたのだろう。王権に誠実でなかったのは蘇我蝦夷だけではなかった、ということになる。
後に中大兄皇子が
皇極天皇紀に入ると、王権へ反抗するのは蘇我蝦夷一人になる。
皇極天皇が夫であった舒明天皇の王墓を造り始めると、蘇我蝦夷は蘇我氏の祖神を祀る
ただ、祖廟建立や八佾の舞を皇帝の特権とするのは大陸の風習である。百済に近しい蘇我氏が実際行ったのかどうかは疑わしい。
これには日本書紀編纂者の恣意を見なければならないだろう。
日本書紀の編纂には、白村江の戦いの後に大陸や半島から日本にやってきて帰化した渡来人が関わっている。特に日本書紀の天智天皇(中大兄皇子)に関わる記述には唐にルーツを持つ大陸系渡来人の関与が指摘されている。
蘇我蝦夷が唐の風習を踏襲したというより、唐の皇帝の特権と比する何らかの儀式を執り行った、と読んでおくのが無難ではないだろうか。
他にも、舒明天皇の王墓が造られているのと同時期に、蘇我蝦夷は自らの墳墓と息子である入鹿の墳墓を造らせた。この墳墓をつくるために厩戸王の一族に仕えていた人夫を使役したのだが、これには存命していた厩戸王の妃がひどく憤慨した。
臣の立場でありながら王族の民を使役するとは、まるで自分が大王(天皇)であるかのようだ、と。
葛城という土地についても王族と蘇我氏には因縁がある。
葛城は葛城氏という古くから倭王権に従い、王族と婚姻関係もある由緒正しい一族の土地だった。
中大兄皇子は葛城皇子とも呼ばれるのだが、これは葛城氏の一族が中大兄皇子の養育をしていたためとも云われる。
王権に比較的遅く現れた蘇我氏は、まず葛城氏に近づいて婚姻関係を結び権力の足掛かりとした。やがて葛城氏と蘇我氏の権力が逆転すると、蘇我氏は葛城氏の土地と歴史を蘇我氏に取り込もうとしたらしい。
蘇我蝦夷の父である蘇我馬子は、かつて推古天皇に直接葛城の土地を蘇我氏に与えてほしいと願い出たことがあるが、推古天皇はその願いを却下した。信任篤い蘇我馬子であっても他氏の権威を外付けしようとする目論見は看過できなかったのであろう。
だが王族の許可を得ないまま、蘇我蝦夷が自らの祖廟を立ててしまう程に、蘇我氏は葛城の土地を勢力下においていたことになる。
大王(天皇)が定めた決まりごとに従わず、王族の民を使役して自分の墳墓を造らせ、王族に許可なく土地を支配する。
これらが日本書紀に記録された蘇我蝦夷の専横と云われる事由である。
これに加え、蘇我蝦夷の息子である蘇我入鹿が、厩戸王の嫡嗣である山背大兄王を襲撃し一族を滅ぼしたことが王族との敵対関係を決定づけたのだが、この事件はまた別の方面から注意深く検証する必要がある。
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