第18話 祈雨の祭祀
642年に即位した皇極天皇は、当時16歳の中大兄皇子を皇太子に定め、舒明天皇から引き続いて律令体制への転換を着実に進めていった。
日本書紀の皇極天皇紀には特徴がある。
皇極天皇は律令体制を推進し、仏教を受容する一方で、倭の古くからの神祇を重んじていたらしい。
日本書紀には、皇極天皇が行った降雨の神事が書かれている。
――皇極天皇が即位した年の夏にひどい
皇極天皇と蘇我蝦夷の対立、倭の神祇と仏教の祈祷との対比など、このエピソードには複数の要素が含まれている。
先に倭の神祇と仏教の祈祷との対比を取り上げるなら、仏教の祈祷は全く効果が無かったわけではない、という描写から、仏教を否定できない王権(あるいは日本書紀編纂者)の立場が透けて見える。
また神祇が有効であったという記述は、大陸由来の律令体制を取りながらも王族の権威を自国の神に求めるという倭国独自の天皇制への兆しを見ることができる。
そして皇極天皇と蘇我蝦夷の対立について見るならば、倭王族の権威である祈雨の祭祀(弥生時代以来の稲作神祇)を、仏教一辺倒の蘇我蝦夷が横取りしようとした、という批判を読み取ることができるだろう。かつて物部守屋と蘇我馬子との間にあった崇仏論の焼き直しのようでもある。
皇極天皇と蘇我蝦夷の対立についてさらに踏み込むならば、律令体制の規範を新たな大国である唐に求めるのか、それとも推古天皇の時代から継承して百済に倣うのか、という外交方針の対立にまで広げることができるだろう。
皇極天皇の時代、蘇我氏の権力を支えてきた百済では国の内部に動揺が生じていた。王族間の争いによって、王位継承権のある百済の皇太子が王宮どころか国を追われ、倭国に渡ってきた。その百済皇太子の身柄を引き受けたのが蘇我氏である。
倭国のなかに倭と百済の二つの王族が存在したことが、その後の蘇我蝦夷の運命を決めることになる。
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