第36話 紅き衝突
ビスコッティ一家の車がガタガタと石畳を跳ねている。
『くそが!イライラすんぜ!』
『帰ったらあいつらギッタギタにしたら?』
『イイこというじゃねーの』
一方そのころ、砂埃を巻き上げてリコリスの馬車が滑り込んできた。馬が前脚を立てて止まり、リコリスが手綱を引きながら、やっちゃんに合図する。
『いきな!』
やっちゃんは飛び降り、転げるようにジェノワーズ家の玄関へ駆け寄った。
『オランジェット!クラフティ!やっちゃんだけど!無事なの!?』
乱暴に叩かれた扉が震え、家の奥でその声が反響する。
母親の隠し部屋で、その叫びを聞いたオランジェットとクラフティは一瞬呼吸が止まる。次の瞬間、2人は同時に梯子へと走り出す。
『今の……やっちゃん!?』
『なんで?ジパングにいるんじゃ……!?』
梯子を駆け下り、足をもつれさせながら廊下バタバタと走った。
震える手で玄関の鍵を外す。
扉が開いた瞬間、ドゥルセの風が吹き込んだ。
その中に、立ち尽くすやっちゃんの姿があった。
『……! やっちゃん……!』
オランジェットが叫び、クラフティが後を追った。2人は同時に飛びつき、胸に顔を埋めた。
『ほんとに……ほんとに無事だったんだね……!』
『あなたたちが心配で…怖かった……よかった』
やっちゃんも、2人の頭を両腕で抱え込み、押し潰すように強く抱きしめた。
『ごめん……全部……全部私のせいで』
声が、涙で震えていた。
玄関先で3人は固まったまま離れない。息の詰まるほどしがみつき合い、互いの温度を確かめ続けた。
そのすぐ後ろで馬車から降りたリコリスが、腕を組みながらその光景を見て口角を上げる。
頬にかかった髪を払って、静かに言った。
『よし。なんだか知らないけど良かったじゃないのさ』
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激しい排気音を撒き散らしながら、ビスコッティの車が石畳を滑るように急停車した。ブレーキの悲鳴が街なかに響く。
『なんてタイミングさね…』
リコリスが眉をひそめながら振り向く。仁王立ちで立ちふさがり、前髪が風で揺れた。
ガチャリとドアが乱暴に開き、ビスコッティがズカズカと歩いてくる。イラついた顔、肩で息をしながら、目だけがギラついていた。
『なんだてめぇら!ひとん家で何してやがる!』
怒声が家を震わせる。やっちゃんの背中にしがみつくオランジェットとクラフティがびくりと肩を縮めた。
だが、元海賊のリコリスだけは微動だにしない。逆に一歩前へ踏み出し、顎を少し上げた。
『いつからあんたの家になったんだい?』
低い、冷えた声だった。
ビスコッティの顔が真っ赤になる。
『なんだとこの野郎……!』
足音を荒々しく鳴らし、リコリスの目の前まで近づいて睨み返す。二人の距離はわずか数十センチ。空気がバチバチと火花を散らしたように緊張する。
リコリスは全く引かない。逆に肩をすくめるように小さく笑った。
『文句があるなら、まずその言葉遣いから直しな。子どもたちが怯えてるさね』
背後のやっちゃんが2人をかばうように身構え、オランジェットとクラフティの手をしっかり握った。
ビスコッティのこめかみがピクリと動く。
『テメェ……誰に口きいて……』
リコリスは静かに、しかし鋭く尖った切っ先のように言い放つ。
『誰に口きいてる?子どもを泣かせて威張り散らすだけのクズにさね!』
ビスコッティの言葉が喉で止まった。
一触即発の空気。
ジェノワーズ家の玄関先で、凍てつくほどの空気が張りつめていった。
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『パパやっちゃえ!』
娘のハーシーの言葉に後押しされ、ビスコッティの手が振り上がった。
その瞬間空気が重く沈んだ。
乾いた破裂音が空気に弾ける。
パシーン!!!!
リコリスの頬にビスコッティのビンタが命中した。だが彼女は後ろに手を組んだまま、ただ顔が横に流れただけだった。足は微動だにせず、地面をしっかりと踏んでいる。まるで木の幹のように揺るがなかった。
『リコリスさん!』
やっちゃんの叫びが響く。
オランジェットとクラフティが目を丸くして息を呑み、やっちゃんの背中にしがみついた。
リコリスはゆっくりと顔を正面に戻した。頬には赤い跡があるはずだが、彼女はそれを指で触りもしない。代わりに、にんまりと笑った。
『オランジェット、クラフティ。目ぇ閉じな』
2人は震えながら言われた通り目を閉じ、やっちゃんが優しく肩を抱く。
リコリスは首を左右に倒し、ごりごりと骨を鳴らした。
その音が冷たい玄関前の緊迫した空気にくっきり響く。
『正当防衛さね!』
次の瞬間、彼女の手が閃光のように走った。
バシィッ。
ただのビンタだった。拳も使わず、体重すら載せていないように見えた。だが、巨体のビスコッティはまるで見えない壁に弾かれたかのように宙へ跳び上がる。
『う、あ……!?』
一直線に横へ回転し、一回転半。重力に引き戻され、石畳へ背中から叩きつけられた。
ドンッ。
鈍い衝撃音が街中に響き、鳥が飛び立つほどだった。
騒ぎを聞きつけて集まって来た街の人々が思わず『おー!』と声を上げ、
拍手が巻き起こる。
ビスコッティは仰向けに倒れ、白目をむきかけながら痙攣する。足が石畳を空しく蹴った。
リコリスは指を一本立て、倒れた巨体へきっぱりと言い放つ。
『自分の非力さを呪いな!』
やっちゃんが目を見開いたまま固まり、オランジェットとクラフティはまだ目を閉じている。玄関前に満ちた緊張が一瞬で吹き飛び、少し冷たい風が静かに通り抜けた。
リコリスは手を払うようにして、やっちゃんの方へ振り返った。
『さて。片付いたよ』
ビスコッティの指が石畳を握りしめる、ゆっくりと体を起こした。
肩が大きく揺れ、顔を上げると、そこにはもはや人の表情とは思えない鬼の形相があった。
『こんのやろう……』
奥歯を噛みしめる音がギリギリと獣の威嚇のように響く。
額の血管が浮き、拳が震えていた。
周囲には、いつの間にか騒ぎを聞きつけた近所のギャラリーがどんどん集まり始めている。家々の窓がわずかに開き、住民たちが息を潜めて外を見ていた。
リコリスはその視線を一切気にしない。
むしろそれを楽しんでいるかのように、口の端をゆっくり持ち上げ、
両の拳をぶつけ合い、コツン!コツン!と骨の音を響かせる。
『おかわりかい?』
その挑発に、ギャラリーの中からクスクスと笑いが漏れた。
緊張が弾けたように、誰かが「やべぇ…リコリスさんの本気が見れるのか?」と呟く。
ビスコッティの目がギラッと光った。
『てめぇ……大勢の前で……恥かかせやがって……!』
声は地を這うように低く、全身の怒りが言葉に乗って震えていた。
リコリスは鼻で笑い、髪をひとつかき上げた。
『恥かいたのはあんたがブタみたいにブヒブヒしてるからだろ 』
ビスコッティの鼻から獣のような唸り声が漏れる。
『手加減しねぇ!グーで行くぞ!』
『来いよ』
やっちゃんはオランジェットとクラフティを背中に庇いながら、震える2人の手を握ったまま事態を見つめる。
玄関先の空気が再び張りつめた。
風が吹き抜けるたび、石畳の影が揺らぎ、茨のような緊張がチクチクと肌に刺さる。
ビスコッティが拳を握り締め、一歩前へ踏み出した。
リコリスはその一歩を、まるで楽しむかのようにじっと見つめる。
静寂が、爆ぜる寸前まで張り詰めていた。
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