8-4


 先生から頼まれた資料整理も、あと少しで終わる。


 ぼくらは毎日、放課後は欠かさず、学校が閉まる時間まで二人きりで過ごした。

 旧図書館で語り合ったり、音楽室で彼女の独唱を聴いたり。

 それが先生に見つかった。

 それからは居残りを許可してもらう代わりに、こうして雑用を頼まれるのが常になっていた。

 まひるは、先生の前では完璧な笑顔で応じる。けど、ぼくの前でだけは「もう、あの先生、わたしたちを便利屋だと思ってますよね」なんて、ぷうぷう頬を膨らませて文句を言う。

 そのギャップが、たまらなく可愛くて。ぼくはこの時間も好きになってしまっている。


 ふと顔を上げた。

 書架に資料を戻すまひるの横顔が、窓から差し込む茜色の夕光に縁取られていた。

 すっと通った鼻筋から、唇へ続く、端正なEライン。淡く輝く銀糸のような髪や、長いまつげが落とす儚い影も美しい。いつもの、天使のような完璧さ。でも何かが違う。

 ――ああ、唇の色だ。

 普段の薄い桜色じゃない。熟れた果実を思わせる、濡れたような艶と、ほんの少しだけ濃い紅。リップを変えたのだろうか。

 気づいてからは、ぷるんと瑞々しいその唇が、やけに扇情的に見えて、唾を飲む。


「どうしました? ないとさん」


 彼女がこちらを振り返る。

 その唇が、ぼくの名前の形に動くのを見て、思考が止まった。

 ぼくは、ただ。


「何か、その……。今日、すごく綺麗で、見とれてた」


 言葉がこぼれた瞬間、我に返った。

 ――何を言ってるんだ、ぼくは。顔が熱くなる。

 こんな陳腐なセリフを口にしてしまった自分に呆れかけた、そのとき。


 黒曜石のような瞳が、ゆるく細められる。

 にまー、と、まるで獲物を見つけた猫のように、いたずらっぽく唇の端が上がった。


「……嬉しいですよ。世界中の何よりも」


 まひるは持っていた資料を静かに書架へ置くと、からかうような眼差しで、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。


「どの辺が、きれいだって思いましたか?」


 一歩ごとに、きゅっ、と上履きが床を鳴らす。静かなはずの教室の空気が、彼女の動き一つでじわりと粘度を増し、重くなっていく。


「目ですか? 髪ですか? それとも、ないとさんの大好きだった、ユイ?」

「それは、その……」

「逸らさないで。ちゃんと見て」


 机の前に立った彼女は、座っているぼくを見下ろすように、ぐっと身を乗り出してきた。

 瞬間、むにゅぅっ、と。

 信じられないほどの柔らかさと重量感が、机の上に押し付けられた。薄いブラウス越しにブラジャーの黒が浮いて、汗ばんだ肌の熱と、たわわに実った果実のような弾力が、はっきりと見て取れる。


「教えてください。わたしが叶えられることなら、何だって、ないとさんの言う通りにしますから……」


 この柔らかい肉が、キスのたびに、ぼくの腹部に触れている。

 こめかみに汗が伝う。心臓がうるさい。腹の底が、熱くなりつつある。

 今までは、どうしても、結衣に絡めないと興奮できなかった。

 けど今、改めて見ると――。


「――ダメですよ?」


 視界が、白と薄桃色の豊かな谷間と、すぐそこにある艶やかな唇だけで、埋め尽くされる。甘い女の子の香りと共に。


「不用意に、そんな発情した雄みたいな顔したら」


 彼女は、わかっている。ぼくが何を綺麗だと言ったか。

 そして綺麗という単語に内包した、本当の意味も。


 ぼくの眼球すれすれまで、濡れた唇を寄せた。

 ちゅっ、ちゅ、と湿ったリップ音をわざと立てた。と思うと、ぼくの耳元で、んちゅ……、ともう一度。

 唇は決して触れない。なのに、その熱い呼気と、ねっとりとした水音だけで、全身の産毛が逆立つ。


「……もう、めちゃくちゃですね、お顔。でも大丈夫ですよ。これから、もっとめちゃくちゃにしてあげますから」


 こめかみに、ふぅー、と熱い息を吹きかけ、ぼくのまぶたが震えるのを楽しむ。

 頬骨のラインを、ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ、と短い音を立てて、なぞるように下っていく。顎の先に唇を寄せた。この世界で最も可愛い、銀髪の美少女が、ぼくの間近で、目を閉じて可憐な唇を差し出す。きっと今むしゃぶりついても、向こうはむしろ喜ぶのだろう。息を飲む音を聞いた彼女は、くすりと笑った。

 机の下で固く握りしめた拳を、思わず開くと、空気が冷たかった。手が汗でぐっしょりと濡れていた。


「んちゅ、ちゅっ、ちゅうう……っ。好き、好き、好き、大好き……っ」


 額を、目尻を、頬を、顎を。何周も、何周も。まるで舐めるような寸止め。彼女の唇は、ぼくの顔面をゆっくりと、執拗に、蹂躙する。


「あなたの理性が、ぜぇんぶ、溶けちゃうまで……やめてあげません」


 甘すぎる、まひるの存在が、脳を完全に麻痺させる。

 下腹部が熱を持った。……結衣を思わないで、こうなるのは初めてだ。

 そして、最後にぼくの唇の真上でぴたりと止まると、唾まみれの舌先で自身の唇をぺろりと濡らし、宣告するように囁いた。


「わたし、五回や六回じゃ、満足できないこと、知っていますね?」


 夕光に染まる埃の粒が、スローモーションで舞い上がる。





「おーい、藤野、月乃! 時間だ。残りの資料、暗くなる前に職員室まで頼むぞー!」


 廊下から響いた、間延びした先生の声で、甘い魔法が解けた。


 最後に残った段ボール箱を二人で持ち上げ、ぼくたちはまだ熱の引かない身体で、教師用エレベーターへと向かった。

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