5-1
◆
ホームルームで、ありふれた日常の一部として“進路希望調査(再)”のプリントが配布されたのは、先月のこと。
夕陽が教室を茜色に染めていく。ぼく以外には誰もいない。
窓際の、前から三番目。そこにあるはずの机と椅子が、今はぽっかりと空いた穴のように見えた。
手元に視線を落とす。無機質な枠線が並んだ、くしゃくしゃになった紙。未来を描くためのそれなのに。何度繰り返したかわからない動作で、もう一度見つめた。
◆
その歌声は、静寂を切り裂くというより、むしろ溶け込むように聴こえてきた。
校内にはもう、誰もいないはず。吹奏楽の音色も、部活動の地鳴りもない。それでも透明な高音がガラスを薄く震わせ、低音は床の奥へ沈んでいく。
ピアノの伴奏と、彼女の声。歌詞は何語かもわからない。けれどその旋律は、雨上がりの澄んだ空気のように、ぼくのささくれた心の澱を洗い流していく。
胸の奥で、兆しが芽吹く。その鼓動は秒増しに大きくなる。音を辿った先は、音楽室の入口。
扉を開いた。
逆光。細い肩。まっすぐな背筋。
立ったまま鍵盤を操る指先。
夕陽の赤い光を全身に浴びて、奏でながら歌う、月乃まひる。
最後の和音を指先で鳴らした。夜の静かな水面みたいな瞳が、まっすぐこちらを見た。
「……先輩。今日は会えないかと思っていました」
歌うのをやめた彼女は、ピアノの鍵盤に布を当てて、蓋を下ろした。拍手喝采の、無人の観客席を横切って、迷わずこちらへ来る。
白い指先が、ぼくの握るプリントの角に触れた。
「進路票、ですか?」
甘い匂いに、楽譜の乾いた香りが一瞬だけ重なる。素肌に浮いた産毛すら見える至近距離。心臓が、喉のすぐ下で跳ねた。
「うん。……期限、過ぎちゃってて」
彼女は「ふぅん」と短く息を落とし、無防備につむじを見せる。さらさらの銀髪が、紙の白にほどけて、溶ける。
まったく警戒していない。
たとえばきみは、ぼくが突然、衝動のままに抱きついたとしても、受け入れるのだろうか。
「第一志望に迷ったら、いちど耳で決めるのがいいですよ」
そしたらきみは。
半歩詰めて、わざとらしく境界線を踏み越えて。
布越しに熱い重みを落とし、背伸びして、耳元に唇を寄せるのだ。
「……試してみますか?」
首筋に這う、温い囁きは、鈴の音よりも静かで、鐘の余韻よりも長い。
濡れた吐息がまんべんなく。しびれが背骨を駆け下り、下半身まで滑って、指先へ。
抱き寄せればきっと止まれない。理性がそう告げる。なのに腕も膝も言うことをきかない。無理に止めようとして震える。
「……耳、で?」
掌に爪を食い込ませて、喉から絞り出すように返事をするのが、精一杯。
「はい。どの方向から、先輩の名前がいちばんやさしく呼ばれるか」
彼女は微笑む。黒曜石のような瞳に、窓の夕陽が、細く揺れた。
「ユイさんのところに戻っても、いいんです」
その言葉に、息を呑んだ。
「先輩が十年かけて作った、大切な想い出です。わたしのために、無理に消さなくてもいいんです」
まひるは構わずに続けた。その声は泣き出しそうなくらい、優しい。
救いの言葉のはずなのに。ここまで、ぼくを肯定してくれているのに。
「でもね、先輩——」
その後の言葉は。
「あなたの帰りを待っている声は、ひとつじゃない。……それだけは、知っておいてください」
彼女の言葉は、夕陽に響く、教会の鐘の音のようだった。
その鐘の光はあまりにも強すぎて、ぼくの内側にある、どうしようもない空虚さと、結衣との過去が残した醜い影を、残酷なまでに照らし出す。
ぼくの心は、空っぽのままだ。
進路希望調査を受け取ってから一か月。
《いっしょに堕ちましょう》。あのときの電話の返事すら、できていない。
こんな優しさを受け取る資格なんて、ぼくには、ない。
なのに彼女は、ぼくを求めている。
どうして、ここまで?
体温が、すっと離れる。
ぼくの手から紙と鉛筆をとった。
記入欄の第一志望の文字。左の余白に、小さく、決して消えないであろう筆圧で、丸をつけた。
丸の中を黒塗りして、点になる。
「……この点って?」
小さく首を傾げ、形のいい笑顔でぼくをたしなめる。
「……わかるよ。答えを出せず、ごめん。気持ちが決まったら、電話で言うよ、ちゃんと」
「ふふ。ロマンがないですね」
彼女は背を向け、ピアノへ戻る。鍵盤の蓋を開けた。布が床に滑り落ちて、指先が沈んだ。
響く和音。きっとまた歌が始まる。誰のために?
仕草も、表情も、いつもと変わらない。
なのに直感した。いつもと違う。
「……まひる?」
呼んでも振り返らない。
「まひる」
演奏が続く。激しい曲調。左手が荒い。
「月乃さん!」
ガァンッ、と、鍵盤が強く叩かれる。
胸がざわめく。
——ぼくも、苦しい。
きみが悲しんでいると思うと、きみを手放すかもって思うと、じっとしていられない。
足を動かす。背後から、その華奢な肩を抱いた。音はまだ止まない。
震える腕を、前に出した。
鍵が、鳴りかけの音を零して止まった。ぼくらの手は重なる。
「きみの……本音を聞かせて」
ぼくの腕の中、彼女の後頭部が、ことり、と胸に預けられる。
ちら、と上目遣いに振り返って。
人差し指が、そっと伸びて、ぼくの唇を封じた。
「苗字は、ダメ」
ぼくの胸に吹き込まれる、熱い吐息。くぐもった声。
「……まひる、さん」
無理な姿勢で伸ばした指だから、しっかり抱かないと倒れてしまう。彼女は不安定な傾斜のまま、身じろぎもせず、指先だけを強くしてくる。
「敬称もダメ」
「……まひる」
「よし」
指が離れる。そして、強い力で抱き着いたまま、上向いた。
胸に抱いたゼロ距離で、いたずらっぽく、そして心の底から満ち足りたように、彼女は微笑んだ。
「先輩。きっと今、初めて、自分の意思で、わたしを呼んでくれたんですね」
——ああ、そうだね。
「……ごめんね。まひる」
「いえ、嬉しいんです。わたしの十年分の祈りが、たった今、叶いました」
ぼくも、きみが好きだ。
好きになってしまった。
それは秘密を共有したとき。結衣の笑顔が遠く、かすれて。代わりに、目の前のきみの吐息が、鮮やかになった。
ずっと認めることができなかったけど、一目惚れだ。
ぼくでよければ、人生、きみに託すよ。
「……どんな選択をしても、わたし、嫉妬なんてしませんよ?」
微笑の端に、影が混ざった。
「わたしが、その影ごと、先輩のぜんぶを、上書きしますから」
彼女の笑顔は、太陽のように眩しかった。
まるで、光を喰らって輝く、黒い太陽のようだ。
ならば、ぼくは。
きみが光を喰らうなら、きみに喰らわれるための、最初の星になる。
「……お願い、していい?」
「先輩の頼みなら、何なりと」
「歌って。ぼくのために」
◆
夕日は完全に落ちた。
夜の帳に包まれた音楽室。
過去を過去として、ちゃんと終わらせるために。
ぼくは、新しい未来へ進むために、最後のけじめをつけに行かなければならない。
演奏を終えた、まひるの手をそっと握り、決意を固めた。
「ありがとう。……行ってくるよ。結衣のお母さんのところに」
彼女は、その手を、より強く握り返してくれた。
「一緒に行きますよ。あなたの彼女ですから」
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