4-2 結衣
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物心ついたときから、白石家の朝は、出来の確認から始まるものだった。
出入りの足音。笑う角度。姿勢。挨拶の声量。
ママはいつも満足しなかった。眉根を寄せて指摘された。直し方を間違えれば、その場の空気が凍った。
その後は、大音量の罵声を浴びせられるか。はたまた、さめざめと泣かれるか。
「……女の子は見られる側なのよ。わかる? あなたのために言ってるの」
父親は家に居ない。検品作業は私ひとりが引き受けた。
だから私は覚えた。空気を整えた人が正解になる、と。
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最初の成功は、偶然だった。
幼稚園で花瓶を倒した。台無しになる甲高い音。床に水が広がった。私は舌を噛んで黙った。先生が固まった一秒の隙に、隣の袖をぎゅっと掴んで、前に押し出した。
「今、倒したのは誰?」
先生の問いに、差し出されたアイツが、小さな声で言った。
「……ごめんなさい」
どうして庇ったのか。その理由は今でもわからないし、正直どうでもいい。
ただ、あの瞬間のアイツの顔は忘れられない。怯えでも、怒りでもなく、ただ、私を見て少しだけ困ったように笑っていた。
気味が悪い。何を考えているのか、さっぱり理解できなかった。
けれど直感した。
──これは、使える、と。
それからの幼稚園は、私の実験場になった。
落とした絵本。忘れたスケッチブック。へし折った色鉛筆。アイツは全部、自ら「ごめんなさい」と言った。
責任は移植できる。移植は痛くない。しかも速い。
ある日、その発見を何気なくママに報告した。
彼女は初めて、私を検品する目ではなく、笑わずに言った。
「一生、囲いなさい」
ママの言うことは、物心がついてから現在まで、まるで当てにならない、呪いだ。
けど唯一、この助言だけは当たった。
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私の奴隷くんは、小学校でも、中学でも、忠実な奴隷であり続けた。
あの日の私は文房具を買いたかった。けど背伸びしたかった。だからアイツにエスコートさせて、最寄りの文房具屋じゃなくて、デパートに行った。
広い空間。人でごった返した活気。色とりどりの服に目移りした。
大人になったらいっぱい買ってもらうと誓って、見て、試着した。黒いドレス。ピンクのスカート。ママから指定された服はもうこりごり。
けど気づいたら門限の時間で、なのにデパートにいて、必要なものは何も買えていなかった。
「目的達成できなかった! アンタのせい!!」
泣き喚いて隣に当たった。そしたら隣は、ごめんねばかりを繰り返した。
こいつ、自分がない。ほんとにコントロールしやすい。
同時に、そのとき初めて、薄ら怖くなった。
理由もなく他人の罪を被る人間は、何をモチベーションに生存しているのか。気味が悪い。
……だから徹底して支配することにした。把握できないものは、私の手の内に置いた。
「また“ごめんね”で終わらせる? 便利だね、その口癖。ごめんとかじゃなくて、下敷きぐらいお前が用意しろよ! こんだけ時間があって私が欲しいって言ったのに何で用意してないのっ!? …… 私、もう嫌。泣かせたの、あなたの段取りの悪さのせい。……うぅ……」
「ごめんね……、ごめんね」
“詰問”“激怒”“泣き落とし”。ママから教わった鎖で、私は彼を矯正した。
その後のフォローも欠かさずに。あなたに怒っていないんだよ、怒ってごめんね、未熟な私は治すから、支えて、って。
次の日、何事もなかったかのようにケロリとして、私に接するアイツだった。
わかっていたけれど、このとき確信した。私の人生には、こういう
それからのアイツは、私が怒ったり、悲しんだり、不機嫌になったりする些細な空気の変化を、恐怖に歪んだ顔で敏感に察知した。そして、その原因がたとえ自分になくても、決まって「ごめん」と口にした。
仕向けたとは言え、面倒くさかった。いちいち気にするなよ、
だから私は笑うことに決めた。
言葉遣いも直した。お前やアンタじゃなくて、あなた。笑い方もあなたにうける快活さ。
小学生より、中学生の私のほうがうまくやれた。高校で完成。周りが羨むくらい演じられた。
その証拠にベストカップル賞。
舞台の熱を浴びながら、心の中で言った。
人生、チョロ。
便利くんを一生使い倒せばいい。
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――達成のあとは、退屈が来た。
つまんないものだ。人生の安泰が約束されると。
アイツに告白はさせなかった。そういう雰囲気を察知するたび、鎖を引いて矯正した。でも、告白がないから次のステップにも進めない。バカみたいに生真面目なのが、アイツの唯一の取り柄だから壊すわけにもいかない。
アイツは、ほんとにバカ。
ママの毎度のわがまま。家のことなんて聞かなければ、今頃リリースも考えたのに。
まあ、いいや。
私の人生の責任はアイツに全部押し付ければいい。でも、日に日にゴミ度が増していくママから受けるストレスの捌け口は、アイツじゃ不足だった。
だから、やってみた。パパ活を。
DMは簡単だった。場所と時間。約束。袋。
境界線? そんなもの、初めから薄かった。クソみたいな家庭環境のせい。
“かわいいね”“助かるよ”――言葉は栄養。数字は麻酔。金銭は自由へのチケット。稼いでは当時の推しに貢いだ。
それで、うまく回る。私が上に立つ。勝つ。
勝てば生きやすい。勝てば正しい。
そう信じていた。
あるとき、パパに出会うまでは。
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パパは私を検品しなかった。
私が何をしても、何を言っても、ただ面白そうに笑って、頭を撫でて、「結衣はそのままでいいよ」と言った。
ママが決してくれなかった言葉を、いとも容易く与えてくれた。
初めてだった。誰かをコントロールする、されるではなく、ただ、受け入れられるということが。
そして著しい快楽の波。
世界がひっくり返るとは、このことだ。
散々浪費した推し活も、パタっとやめた。
私は、ようやく本当の幸せを見つけたんだ。
×
だから――告白は、余計だった。
「結衣。ぼくは、もうきみの隣じゃなくて、正面に立ちたい。きみの顔色を伺うんじゃなくて、対等でいたい。ぼくが、きみを守るから。だから……、改めて、付き合ってください。……好きです」
そう言われた瞬間、ようやく見つけた聖域に、土足で踏み込まれた気がした。
違う。お前じゃない。お前の役割はそこじゃない。
お前は私の「将来」という名の保険。私の「過去」という名の鎖。私の足元で、ただそこにいればいいだけの奴隷。勝手に校舎裏に呼び出しやがって。告白は許可しない。
死ね。喉まで出かかった言葉を、完璧な笑顔で飲み込む。計算が狂う。まだだ。
今のままでいい。これ以上、余計なことをするな。
お前は私に貢ぎ、私はパパとの幸せを享受する。パパと会えないときは彼氏で我慢する。完璧な布陣じゃないか。
「……ごめんね」
言えた。
はい、これで将来も安泰。私の勝利。
明日フォローすればいいでしょ。……いや、三日くらい泳がせるか。私に手間かけさせるなっていうペナルティ。
私の本意じゃなかったって言えば、毎回の如く、犬コロのように尻尾を振るさ。
◇
――ねえ、私は悪くないよね?
だって所詮、この程度の話だ。
家庭環境が悪かった? だから何?
私はその中で、誰よりも賢く、正しく立ち回ってきただけ。
悪いのは、私をこんな風に検品し続けたママ。悪いのは、思考停止で私に依存し続けたアイツ。悪いのは、私の演技に騙された周囲のバカども。
私は、私のルールの中で、いつだって「善良」に振る舞ってきた。
私が、間違っているはずがない。
なのに。
「……白石結衣さん。無期限の自宅謹慎処分とします。事実関係が明らかになるまで、学校への立ち入りを禁じます」
事実関係?
事情を明かせば、確実に退学。明かさなくても、単位の問題。留年。何年にも渡って。
経由先が違うだけで、結末は同じ。
──実質、一発アウト。
「何で?」
何で? 何で? 何で?
私の計算は完璧だった。私の演技は完璧だった。私が正解のはずなのに。
応接室にまではびこるトナーの匂いが、思考を麻痺させる。
目の前の大人の顔には、何の感情も浮かんでいない。
私は必死で、ママから見よう見まねで教わった生存戦略の全てを試した。困ったように笑ってみせた。涙ぐんでみせた。声を震わせて、冤罪を訴えてみた。
けれど、目の前のシステムはピクリとも動かなかった。私の作り上げた空気なんて、まるで存在しないかのように。
ああ、そうか。
ここは、ママのいる家じゃない。
アイツが隣にいない。
アイツの隣には、あの天使みたいな顔をした女がいる。
私の計算の外から、私の全てを嘲笑っていた、あの女が。
あの女さえいなければ。
見守りがゼロになった世界。
“失った保証”の大きさ。
目の前に、一枚の紙が置かれる。
そこに印刷された自主退学届の五文字が、私という欠陥品に押された、最終的な不合格の烙印に見えた。
(あとがき)
ここまでお読みいただき、いつも、本当にありがとうございます。
これから結衣は少しずつ何かを失います。次回は、友達。
種は自分で蒔いたので、刈り取られるだけ。
★、ブクマ、応援ハートをくださった方へ、心から感謝します。
いつもコメントをしてくださり、誠にありがとうございます。
面白い/許せないと思っていただけましたら、まだの方はぜひ、★とブクマを。
とても励みになります。
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