第9話:届かない声

さくらの世界は、静かに歪んでいた。


現実と幻の境界は曖昧で、母親の予測不能な感情の波に揺られながら、

息を潜めて日々をやり過ごす。


心を繋ぎ止められるのは、ポテトと話す時間だけだった。


学校では、友達の会話も遠くに聞こえる。


気づけば授業中に、意識を空想の海へ解き放っていた。



ある日の放課後。


いつものように図書館の隅、

床に直接座り込み、膝に抱えた本の世界へ沈んでいた。


不意に、肩を優しく叩かれる。


びくっとして振り返ると、

クラス委員長が真っ直ぐな瞳でこちらを見ていた。


「さくらさん、最近、授業中もぼーっとしてることが多いけど…

 何かあったの?」


視線から逃げるように目を伏せ、少し戸惑いながら答える。


「ううん…別に、何でもないよ」


「でも、先生も心配してたよ。

 もし何かあるなら、私でよかったら話を聞くよ?」


その言葉が純粋な善意から来ているとわかっても、

この歪みをどう説明すればいいのか――


理解されるはずがない、という諦めが思考を鈍らせる。


そのとき、頭の中に悍ましい声が響いた。


《誰も信じるな。信じちゃいけない》


さくらは唇を固く結び、

自分でも驚くほど冷たい言葉が口をついた。


「……ほっといて」


委員長は一瞬だけ傷ついたように目を見開き、

それでも凛とした表情で優しく言った。


「そっか、ごめんね。

 でも、私はさくらさんのこと、誤解されやすいだけだと思ってる。

 もし気が向いたら、いつでも声をかけて。待ってるから」


柔らかな微笑みを残し、委員長は去った。


背中が見えなくなるまで、

さくらは、悔いと戸惑いを抱えたまま、動けなかった。


「待ってるから」

という言葉が、呪いのように頭で反響する。


信じてはいけない。

期待すれば、また傷つくだけ。


そう言い聞かせても、委員長の穏やかな声が耳から離れない。


《ほら、やっぱりみんな、お前を変だと思ってるんだ。

 誰も理解なんてしてくれない》


悍ましい声が嘲笑する。


さくらは、開いていた本を乱暴に閉じ、

棚に戻すこともせず、何かに追われるように図書館を出た。



家に帰ると、リビングから機嫌の良さそうな母の鼻歌が聞こえた。


今日は「良い日」らしい。


靴を脱ぐのももどかしく、息を殺して階段を駆け上がる。


自分の部屋に飛び込み、ドアに鍵をかける。


水槽の前に崩れ落ちるように座り、か細い声で呼びかけた。


「ポテト……」


岩陰から、心配そうな声が返ってくる。


「どうしたんだい?さくらちゃん」


俯きながら、指先でスカートの裾をいじる。


そして、今日の出来事を途切れ途切れに話した。


「……どうしよう。

 委員長が、私の味方だって。待ってるって…」


「すごい!それはラッキーチャンスだよ!

 難しく考えすぎだよ、さくらちゃん」


ポテトはヒレをぱたぱたと動かし、

明るい声で続けた。


「『ありがとう』――たった五文字の魔法の言葉さ。

 それを言うだけでいいんだ」


「笑顔で言えたら、魔法の力は何倍にもなる!

 次は、勇気を出して言ってみてごらん」


さくらはしばらく黙って、その言葉を反芻した。


やがて顔を上げ、迷いの残る瞳で、小さく、しかしはっきりと頷く。


「……わかった。

 ポテトが言うなら、やってみる」


「うん。きっと君の魔法は届くよ!」


さくらは胸に手を当てた。

冷え切った心に、小さな灯がともるのを感じた。

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