第四章 第四話

新しい日を、わたしは、ただ、ぼんやりと見つめていた。窓の外は、朝の光が、ガラスの建物に反射して、眩しく輝いている。わたしの心は、その光に、何も感じなかった。まるで、この光が、わたしの存在を、完全に無視しているかのように、ただ、そこに、輝いているだけだった。


朝食を摂る気力もないが、ただ、硬いパンを、水で流し込む。

食事を取らずにまた倒れたら、母が来てわたしに「頑張れ」というかもしれない。

それだけはどうしても嫌で、わたしは、胃の奥からこみ上げてくる吐き気を、息を吐き出すことで、押し込めた。

息を吐き出すたびに、わたしの時間が、少しずつ引き伸ばされてゆくような気がする。わたしはここ半年ほど、今この瞬間が終わることだけを考えて生きてきた。

一分一秒が過ぎるのがあまりに遅くて、けれど何も喜びを見いだせないまま、足早に半年が過ぎ、わたしは社会人になっていた。



味の薄い食事を終えたわたしは、クローゼットの中から、真新しいスーツを取り出した。黒い、何の飾り気もない、ただのスーツは、何知れぬ顔でそこに佇んでいる。


それを身につけると、わたしは、わたしという存在が、どこにも行く場所がないことを、改めて思い知らされた。鏡の中のわたしは、黒いスーツを身につけ、無表情で立っている。その顔は、まるで、魂を吸い取られた抜け殻のように、生気がない。わたしは、そこに縛りつけられている。


息をし、歩き、話す。


その動作はわたしの体がわたしのものだと思い知らされてくるが、みただけではわたしがここにいないのでは無いかと希望を抱かせてしまう。

けれどいつもの様に声を出してみると、絶望的になった。

わたしは死ぬまで消えることがない。

どんなに傷ついても、すり減っても、完全に消えることはなく、痛みだけが襲う。

擦り減り、消えるのではないかと希望を抱かせても、すぐに現実が支配するのだ。


溜息をつきながら、玄関のドアを開けると、冷たい空気が、わたしの頬を撫でてゆく。


わたしは、重い足を引きずって、エレベーターの前に向かった。


暫く待ち、エレベーターの扉が開くと、中にはやはり、誰もいなかった。


階数ボタンを押す指先が、僅かに震える。

このエレベーターは寒く、装飾も施しており豪華なのに、暗い雰囲気だ。わたしは僅か一週間でこのエレベーターが嫌いになっていた。


エレベーターが、一階に降りてゆく。

戻りたいと思ったら、エレベーターのスピードが上がる。けれど早く降りて戻りたいと思えば、極端に遅くなる。

ふと鏡が目に入り、否応なしにわたしの顔が見える。

わたしの顔が、これから、沢山の人々の目に、晒される。そのことに、わたしは、深い絶望を感じるしか無かった。人々の目にはわたしの顔が普通に映るのだろう。

だが、わたしは、自分の疲れ切った表情に悲しみすら覚えていた。


エレベーターの扉が開くと、ホテルのようなロビーが、相も変わらずに拡がっていた。一歩先は外だ。その事に絶望と恐怖を覚えつつも、足は勝手にマンションを出て、わたしは、街を歩き始めた。

くらくらする。

外に出た途端、足がよろめき出し、転びそうになる。

額には冷や汗がつたい、息が荒くなる。

怖い。怖い。怖い。

会社に着いてしまえば、もう抜け出せない。

途中で退場する勇気は、わたしにない。

だが、引き返す勇気もない。引き返したら、会社から電話がかかって来る。

その時わたしは、何と答えれば良いだろう。応えが思いつかず狼狽えるのは想像できる。


そんなことを考えていると、わたしは、駅から近い、大きなビルの前にたどり着いた。そのビルは、まるで、空に向かって高くそびえ立つ、巨大な墓標のようだ。このビルの中で、わたしは、真面な社会人を演じ、暗さを封じこめ、明るく振る舞いながら、生きてゆかなければならない。

学生時代もわたしは、演じないと、生きて行けなかった。わたしは社会人でいる限り、何十年も演じてゆかなければならない。


ビルの入り口には、沢山の人々がいた。

皆、わたしと同じように、真新しいスーツを身につけている。


わたしと一つ違うのは、希望に満ちた顔をしていることだ。


わたしは、その希望に満ちた顔を見て、胸が締め付けられた。わたしは、もう、こんな風に、希望に満ちた顔をすることはできない。わたしは、もう、こんな風に、笑うこともできない。

悲しくなった。


足は、気づけば、ビルのエントランスに入っていた。

まるで、巨大な教会のように、天井は高く、床はピカピカに磨かれている。


人々が、わたしと同じようにホールに向かい歩いてゆく。わたしは、その人々の後について、足早に追うように歩くしか無かった。

大勢の人の足音は明るく軽やかなのに、わたしの足跡は、不気味で重いような気がする。


大きな扉が開くと、そこには、たくさんの椅子が並べられていた。壇上には、会社のロゴが入った垂れ幕がかけられている。たくさんの人々が、それぞれに、席に着いてゆく。わたしは、その人々の間を、まるで幽霊のように、漂い、席を探す。

わたしの席は、どこにあるのだろう。

わたしは、どこに座れば良いのだろう。

不安に駆られながら、わたしはようやく自分の席を見つけた。席には、わたしの名前が書かれた名札が置かれている。わたしは、その名札を、ただ見つめ、その名前の付いた席に、重い腰を下ろした。


呆然と目の前を眺めていると、

ハッとする。


隣に座った女性が、わたしに、にこやかに話しかけてきていた。


「はじめまして!わたしは田中望加たなかもかです!湖東さんだよね?これから仲良くしてね!」

彼女の笑顔は、まるで、太陽のように眩しく、あまりの釣り合いの取れなさに、わたしは思わず、目を細めた。

彼女の言葉は、わたしには届かない。

友達を作ることなど、もう考えられない。友人など、悩んだ時は他人事のように嫌に明るく励ますだけの存在なのだ。

友香も、芽実も、そうだった。


わたしは、ただ、曖昧にうなずくことしかできなかった。


やがて、壇上に、会社の社長が姿を現した。彼は、わたしたち新入社員を、温かい目で見つめ、話し始める。



「皆さんは、今日から、私たちの家族です。私たちは、皆さんの新しい人生を、心から応援します」



彼の言葉は、わたしには、遠い幻のように聞こえた。

家族。応援。

そんな言葉は、わたしには、何の響きも持たなかった。わたしは、もう、家族を失っている。形式的にいる家族は、もう家族ではない。

わたしは、もう、誰にも応援されていない。

わたしは、もう、この世界に、たったひとりで、取り残されてしまっているのだ。

例え応援の言葉をかけられても、形式的にしか思えない。


壇上では、新入社員の代表が、挨拶をしていた。彼は、希望に満ちた顔で、堂々と話している。

「僕たちは、この会社で、夢を叶えたいと思います。この会社で、社会に貢献したいと思っています」

彼の言葉は、わたしには、まるで別の世界の言葉のように聞こえた。夢。貢献。そんな言葉は、わたしの中にはない。

わたしは、もう、夢を持っていない。わたしは、もう、社会に貢献したいと思っていない。わたしは、ただ、この場所で、ただ時間をやり過ごし、生きてゆくだけだ。


入社式が終わると、たくさんの人々が、わたしに話しかけてきた。


「湖東さん、これから仲良くしようね!」

「湖東さん、一緒に頑張ろうね!」


彼らの言葉は、わたしには、ただのノイズにしか聞こえなかった。わたしは、ただ、曖昧に微笑むことしかできなかった。笑顔も、わたしの本心から出たものではない。それは、わたしではない、わたしが作り出した誰かの笑顔だった。

あまりに長い時間はすぎ、わたしは入社式の会場を後にした。この会社で生きてゆくには、これから、わたしという存在を、完全に消滅させなければならない。わたしはこの社会に適応出来ない。

わたしでなくならなければならない。消せないと言っていることも出来ない。


わたしの心臓は、ドクドクと、不規則なリズムで鳴り響いている。それは、怒りでも、悲しみでもない。

わたしの仮面の鼓動なのかもしれない。


わたしは、この会社の社員として、この街で、この世界で、生きてゆかなければならない。逃げ出すことも出来ない。


わたしは、わたしではない。

わたしは、この言葉を、心の中で、何度も繰り返した。そうすることで、わたしは、少しだけ、楽になれたような気がした。しかし、その安堵感は、絶望や恐怖と隣り合わせだ。

わたしは、このまま、わたしを消せないまま、仮面を被って生きてゆくのだろう。

わたしの願望は、この世界から、人知れず、消えてゆくのだろう。

わたしは、そのことを考えながら、ただただ、歩き続けた。

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