第四章 第三話
窓から差し込む光は、わたしの部屋には、届かない。
重たいカーテンは、昨晩の不安を閉じ込めたまま、ぴたりと閉まったままで、部屋の中は、朝だというのに、まだ闇が漂っている。薄闇の中、わたしは、ベッドの上で、膝を抱えていた。昨夜から再び、心臓が不規則なリズムで、ドクドクと鳴り続けている。
わたしという人間が、この世から消えてゆくように、わたしの体から、離れようとしている音の気がした。
だが、現実は容赦がないものだ。そんな希望を抱いても、すぐに砕け散るのが常だ。
希望などは見せかけだ。わたしは人生の中でそれを学んでしまっていた。
目を閉じると、昨晩の音が、鮮明に蘇る。
こぽ、こぽ……と、壁の向こうから聞こえてきた不気味な音は、幻聴だったのだろうか。
だが、わたしは、あの音が、幻聴だったとは、どうしても思えない。
あの音は、はっきりと、わたしの耳に届いていた。
わたしは、もう、この部屋で、安心して眠ることはできない。
わたしは、このベッドに居ることすら恐ろしくなり、急いでベッドから立ち上がった。
体は、鉛のように重い。だが、わたしは、このまま、この部屋に閉じこもっているわけにはいかなかった。この不安を、誰かに、打ち明けないと、自分を保てなくなる。
それは喜びでも、救済でもない。
今のわたしでいるより、さらに辛い現実が待っている。
わたしが思い浮かべたのは、九階に住む、都築友香の顔だった。友香も、わたしと同じ、このマンションの住人だ。
もしかしたら、彼女なら、わたしの話を、信じてくれるかもしれない。
わたしは、部屋のドアを開け、廊下に出た。廊下は、朝だからなのか、ここだからなのか静まり返っている。
誰もいない。
わたしは、慣れられずにいる静けさに、胸騒ぎを覚えた。
エレベーターに乗り、わたしは、九階に上がった。エレベーターの中は、無音で、闇が忍び寄ってくるような感覚がある。
震えがとまらず、わたしはからだを擦った。
エレベーターが九階に着くと、わたしは、すぐにエレベーターを降りた。九〇三号室のドアの前まで急ぐと、わたしは、震えが止まらない手で、チャイムに手を伸ばした。
ピンポーン
チャイムの音が廊下に響き渡る。その音が、わたしの心臓を、またもや締め付けた。
しばらくすると、ドアが開いた。ドアの向こうには、友香が、わたしを見て、少し驚いたような顔をして立っていた。
「あ、梨沙ちゃん?朝早くに何かあったの?」
わたしは、昨晩の不安を、彼女に打ち明けようと必死に言葉を絞り出した。
「あの、昨日の夜のことなんですけど……。えっと……壁の中かな……どっかから変な音がして……こぽこぽ、って言う音です。水はどこにもないんです……」
昨夜同様、どうしても上手く言葉が出せない。途切れてしまい、友香に分かっただろうか。
だが、彼女の表情は、少しずつ、曇っていった。
わたしは、必死な思いで彼女の顔を、じっと見つめる。彼女の顔は昨日の夜、芽実が見せた表情とまるで同じだ。
「その音……多分村塚さんですね」
「あの人、やっぱり、おかしいんだよ。夜中に変な音を立ててたり、大声で叫んでたり……」
芽実の時と同じように、彼女は小声で囁くと、わたしに目をやった。
哀れみの目を向けられている。他人事だと片付けたような視線だ。
わたしは、彼女の目に耐えられなくなっていた。
わたしの心臓に、深く針が刺さるような痛みを感じた。
期待していた。
友香だけは、わたしの不安を、真剣に受け止めてくれるかもしれないと、ほんの少しだけ希望を抱いていた。
だが、彼女は、芽実と同じだった。
彼女は、ただ、わたしに村塚のことを「おかしい」と、断定したいだけなのだろう。わたしのことなどどうでも良いのだろう。
わたしは、そのことに、深い絶望を感じていた。
わたしは、もう、誰にも頼れない。わたしは、もう、誰にも相談できない。わたしは、このマンションで、たったひとりで、この恐怖と、向き合わなければならないのだ。
部屋に入ると、布団に包まり耳を塞ぐ。
壁の向こうから、また、音が聞こえてくるのではないかという不安が纏わりついて離れない。もう、耳を澄ませることすらできない。怖いのだ。
また、聞こえてきたら、今度こそ他にもっと恐ろしいことが起こるような気がした。
この部屋で、腐ってゆく。
それが、わたしの望みだったはずなのに、今は、その望みすら、わたしを追い詰める。
わたしは、もう誰にも、この絶望を、打ち明けることはできない。
わたしは、このマンションで、たったひとりで、孤独な恐怖と、永遠に向き合っていかなければならない。
わたしは、もう誰にも愛されず、構われない。ただひとりで、永遠に存在し続ける。
頼れる人はいない。頼れても、運命の歯車には逆らえない。わたしは、このマンションで暮らさなくてはならない。
壁にかけられたカレンダーをみて、絶望が深まる。
入社の日は、すぐそこまで迫っていた。
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