第四章 入社【湖東 梨沙】
第四章 第一話
わたしの手には、デパートで買った、軽い焼き菓子の袋が握られていた。袋の重さは、わたしの心にのしかかる重さとは、まるで違い、中身が入っているかも疑うほどに軽い。わたしは、その袋をぎゅっと握りしめ、部屋のドアを開けた。
暗がりが、すうっと廊下に流れ出てくる。わたしは思わず目をつぶった。
廊下は、やはり、しんと静まり返っていた。
誰もいない。
この階に住んでいるのは、わたし一人だけでは無いだろうか。荷物が無駄になってしまうと考えたが、辺りを見渡せど、ガス回線の案内はどこにもかかって居ない。
「みんな住んでるみたい」
気づけば声に出して呟いていた。
もしかしたら、この時間にはいないのかもしれない。
そう思いながらもわたしは、隣室の八〇四号室のドアの前で立ち止まった。緊張で、心臓が不規則なリズムで鳴り響いている。わたしは、恐る恐る、チャイムに手を伸ばした。
「ピンポーン」
チャイムの音が廊下に響き渡る。その音がやけに不気味で、わたしは自分の体を抱え込んだ。
しばらくすると、ドアが音を立てて開いた。ドアの向こうには、わたしと同じくらいの年齢の、女性が立っていた。彼女は、わたしを見て、少し驚いたような顔をした。
「あの、わたし、八〇三号室に引っ越してきた者です。あの……えっと……ご挨拶に…」
わたしは、差し出した焼き菓子の袋を、彼女に差し出した。彼女は、少し戸惑ったような顔をしながらも、それを受け取ってくれた。
「わざわざ……申し訳ないです。わたし、八〇四号室の
彼女は、にこやかに微笑んだ。その笑顔に、わたしは少しだけ安心できたような気がした。
「あの、一つだけ、伝えておきたいことが…」
彼女は、そう言って、わたしの方に少し身を乗り出し、声を潜めた。
「八〇二号室に住んでる方とは、あんまり関わらない方がいいですよ。あの人、ちょっと変わった人ですから……色々噂もあって。わたしもよく知らないですけど」
彼女の言葉は、冷たい水を浴びせたように、わたしの心を凍りつかせる。わたしは、何も言えなかった。戸惑いや、不安、恐怖が一気に芽生え、心の中で増幅し、わたしを襲った。
わたしはただ、礼を言って、八〇四号室を後にした。廊下を歩きながら、わたしは、八〇二号室のドアを見た。ドアは、何の変哲もない、ただのドアだ。けれど、そのドアの向こうには、わたしの知らない、恐ろしい誰かが住んでいる。そう思うと、わたしの心臓は、さらに激しく鳴り出した。
だが、わたしは、八〇二号室にも、挨拶に行かなければならない。行かなければ、余計に何かあるかもしれない。恨みを買ったらどうなるか分からない。そう思い、わたしは、八〇二号室のドアの前まで行った。わたしは、震える手で、チャイムに手を伸ばす。
「ピンポーン」
今度は、すぐにドアが開いた。ドアの向こうに立っていたのは、わたしよりも少し年上の、男性だった。彼は、わたしを見て、にこやかに微笑んだ。
「ようこそ。僕は八〇二号室の村塚です。これから助け合っていきましょう」
彼の笑顔は、とても穏やかだった。八〇四号室の│
「あの、八〇三号室に引っ越してきた湖東梨沙です。あの……ご挨拶に…」
わたしは、また、焼き菓子の袋を差し出した。彼は、それを受け取ると口を開いた。
また不穏な事を言われるのではないかと、少し不安になる。
「いいんですか?じゃあ遠慮なく。何かあったら僕に言ってね」
彼は、そう言って、また、穏やかに微笑んだ。わたしは、彼の笑顔を見て、八〇四号室の彼女が言っていた言葉は、ただの噂であったのだろうかと混乱した。
わたしは、再び礼を言って、八〇二号室を後にした。廊下を歩きながら、わたしは、八〇二号室のドアを見た。ドアは、今見ても何も変わらない。そのドアの向こうには、おかしい人間ではなく、優しい人が住んでいた。それを考えてほっと一息をつきながら、八階全員の挨拶を終える。
そしてわたしは、エレベーターに乗り、九階へと上がった。
九〇三号室にも、挨拶に行かなければならない。そう思い、わたしは、チャイムに手を伸ばした。
「ピンポーン」
しばらくすると、ドアが開いた。ドアの向こうには、わたしよりも少し年上の、若い女性が立っていた。彼女は、わたしを見て、笑顔で出迎えた。
「九〇三号室の
彼女は、とても優しい笑顔で、わたしを迎えてくれた。わたしは、残り少くなった焼き菓子の袋を差し出した。
「わざわざ、ご丁寧に。今度お返し持ってくね」
彼女は、そう言って、少し声を小さくする。
わたしはその状況を考えて、八〇四号室の時を思い出した。
まさか、彼女もその話をするのではないだろうか。
「あの、八〇二号室の人には、もう挨拶、行きました?」
わたしは、彼女の言葉に、心臓が大きく跳ねた。なぜ、彼女が、八〇二号室のことを話したいるのだろう。どうして、わたしに、そんなことを尋ねるのだろうか。
「は、はい…」
わたしは、驚きを隠せないまま、細い声で答えた。
彼女は、わたしの顔を見て、少し表情を曇らせる。
「あの人、ちょっと変わってるから、あんまり関わらない方がいいよ。前に、夜中に大声で叫んでたりして、警察沙汰になったこともあるみたいだし」
わたしの心臓に、深く突き刺さるような感覚があった。八〇四号室の芽実が言っていた言葉と、まるで同じだ。しかし、わたしが会った八〇二号室の人は、とても穏やかで、優しい人だったはずである。
どちらが、本当なのだろう。
わたしは、二人の言葉と村塚の様子に板挟みになり、混乱した。芽実と友香は、八〇二号室の住人のことを「おかしい」と言う。
けれどわたしが会った八〇二号室の住人は、とても穏やかだった。
どちらかが嘘をついている。
村塚はまだしも、芽実と友香に嘘をつく必要があるのだろうか。
わたしは、このマンションで、何が起こっているのか、わからなかった。わたしは、このマンションで、これから、どう生きていけばよいのだろう。そんなことを考えていると、わたしの心臓は、恐怖で張り裂けそうになっていた。
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