第三章 第四話

部屋に散らばっていた段ボール箱は、いつの間にか、その姿を消していた。

無意識に片付けていたのだろう。

中身の荷物は、ただ無造作に、部屋の隅に積み上げられている。

ふと、時計を見ると、三時を過ぎていた。窓から差し込む光が、もう傾き始めていて、部屋の中には、長い影が伸びている。

わたしは、部屋の中央に立ち尽くしたまま、動けなかった。部屋は、もう片付いたはずなのに、わたしの心の中は、まだぐちゃぐちゃのままだった。わたしは、この部屋で、これから生きてゆく。そのことが、どうしても信じられなかった。

ふと、玄関のドアに目をやった。ドアの向こうには、わたしの知らない人間が住んでいる。挨拶をしなければならない。この新しい街で、わたしは、また新しい人間関係を築いていかなければならない。そのことが、わたしをひどく憂鬱な気分にさせた。

わたしは、財布を手に取り、立ち上がった。財布の中には、母が持たせてくれた、いくらかの現金が入っている。この現金で、近隣住民に渡すものを買わなければならない。わたしは、重い足を引きずって、部屋のドアを開けた。

廊下は、しんと静まり返っている。誰の気配も感じられない。まるで、この階に住んでいるのは、わたしだけのような気がした。わたしは、その静けさに、胸騒ぎを覚える。

だが、直ぐに今が会社のある時間だと思い出し、安堵した。

エレベーターに乗り、わたしは、一階に降りていった。エレベーターの扉が開くと、そこは、わたしが先程見たばかりの、無機質なロビーが拡がっている。

誰もいない。わたしは、そのロビーを、ただただ歩いていった。わたしの足音だけが、不気味に響く。

わたしは、マンションを出て、この街を歩き始めた。街は、先程と同じように、ガラスの建物で埋め尽くされている。人々の波が、わたしを押し流してゆく。けれど、その人々の顔は、わたしには、どれもこれも同じに見えた。皆、無表情で、ただ何も考えずに歩いている。まるで、この街に住んでいるのは、人形だけのような気がした。

わたしは、デパートに向かう事に決めた。駅前にある案内を見て、デパートやショッピングモールの多さに驚く。

わたしはどこに行けば良いのかよく分からず、近くにあるデパートへ向かった。デパートの入り口には、自動ドアがある。ドアが開くと、中から、甘ったるい、嫌な匂いが漂ってきた。わたしが今まで嗅いだことのない、人工的な匂いだ。

デパートの中は、人でごった返していた。たくさんの人々が、それぞれに商品を手に取り、楽しそうに笑っている。しかし、わたしには、その笑い声が、ひどく遠く、空虚に聞こえた。

わたしは、デパートの中を、ただただ彷徨った。何を買いに来たのか、わからなくなっていた。わたしは、誰に、何を渡せば良いのだろう。わたしは、誰と、これから関わっていけば良いのだろう。そんなことを考えていると、わたしの心臓が、また、不規則なリズムで鳴り出した。

わたしは、銘店菓子のコーナーにたどり着いた。色とりどりの箱が、わたしを誘惑するように、きらきらと光っている。わたしは、その中から、無難な焼き菓子の詰め合わせを手に取った。だが、その箱は、わたしの手の中では、ひどく軽く、まるで、その中に、何も入っていないかのようだ。


わたしは、レジに並ぶため、目を彷徨わせる。

少しして見つけたレジスターの場所に並ぶと、わたしの前には、たくさんの人が並んでいる。皆、楽しそうに、買い物をしている。わたしは、その光景を見て、胸が締め付けられた。わたしは、もう、こんな風に、楽しそうに、買い物をすることはできない。わたしは、もう、こんな風に、笑うこともできない。

わたしは、レジで、会計を済ませた。店員は、わたしに、笑顔で御礼を言ってくれた。

けれど、その笑顔は、わたしには届かない。

わたしは、ただ、その笑顔を、ぼんやりと見つめていることしかできなかった。

デパートを出ると、もう、空は、すっかりオレンジ色に染まっていた。夕陽が、ガラスの建物に反射して、街全体が、燃えているかのように見えた。わたしは、その光景を見て、胸がざわついた。

わたしは、この街で、生きてゆけるのだろうか。

わたしは、この街で、わたしという存在を、保っていられるのだろうか。

そんなことを考えていると、わたしの心臓が、また、ドクドクと鳴り出した。心臓が、ジリジリと痛み、思わず手で抑える。それでも立ち止まることは許されず、わたしは人波に押し流されてゆく。

わたしは、焼き菓子の入った袋を、ぎゅっと握りしめた。袋の中身は、ひどく軽いままだ。だが、その軽さが、わたしには、ひどく重く感じられた。わたしは、この軽さを、重さを、これから、この街で、背負っていかなければならない。

わたしは、このままこの街で、消えてゆくのを願う。ただの抜け殻になってしまえば良いと本気で思った。

だが、それが叶うことは無い。わたしは、自分を消せないまま、絶望を深めていた。

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