第一章・第三話『黄金の檻』
陽の光が、襖越しに静かに差し込んでいる。
淡く金を帯びた光は、まるでこの部屋全体を浄化するように静謐だ。けれど、それは慰めではなく、逃れがたい現実を照らし出す光でもあった。
——私は、また目を覚ましてしまったのか。
夢ではない。どんなに願っても、これは夢ではないのだと、幾度も朝を迎えるたびに痛感する。
あの日、現代の女子高生として、テストに追われ、スマホを片手に友人たちと笑い合っていた「私」は、もういない。
鏡に映るのは、繊細な顔立ちと漆黒の瞳を持つ、どこか儚げな少女。だがその身に宿るのは、豊臣秀吉の側室、淀殿——茶々の人生だ。
今の私は、「御方様」と呼ばれ、この煌びやかな大坂城の奥で生きている。
けれど、それは王妃のような優雅なものではない。
この城は豪奢な装いを纏った檻。その中で私は、何を思い、何を選び、どこへ向かえばいいのかさえ分からずにいる。
「御方様、お目覚めでございますか?」
障子の向こうから、すみれの声がした。
静かで、張りつめたように落ち着いた声。すみれは、私の側付きの侍女だ。年の頃は私と同じくらいだろうか。端正な顔立ちと無駄のない動作、そして常に沈着冷静な振る舞い。
けれどその瞳の奥には、何か隠しているものがあるように思えてならない。
「ええ……少し、夢を見ていたの」
私は答えながら、上半身を起こした。絹の寝具が静かに落ちる。
夢、というよりは記憶の残滓だ。かつての自分。制服、駅のホーム、夏の匂い。全部、遠くなっていく。
寝所の外では、すでに侍女たちが朝の支度を始めていた。水の音、衣擦れの気配、控えめな足音。
城の一日は静かに、だが確かに動き出している。
「御方様、本日は昼下がりより、秀吉公がお越しになると伺っております」
すみれが静かに報告する。
その言葉に、私の背筋が自然と伸びる。体が反応してしまうのだ。かつて歴史の教科書でしか知らなかった人物が、今や目の前に現れ、私の人生を左右している。
「お会いせねばなりませんか?」
「……はい。ご様子からすると、避けるのは難しいかと」
心の奥底に、鈍く冷たいものが沈むのを感じる。
秀吉は優しげに笑うが、底知れない。あの目に見つめられると、身体の芯が凍りつくようだった。
「装束のご準備をいたします。お気に召しますように」
すみれは深く頭を下げ、私の寝具を整える。
彼女の手つきには一切の無駄がない。それがかえって、彼女自身が何かを押し殺しているようにも思える。
「すみれ……貴女は、怖くないの?」
「恐れは常に傍らにございます、御方様。けれど……」
言葉を濁したまま、すみれは一礼して退出していく。
私はもう一度、天井を仰いだ。
この世界で生き延びることは、歴史と向き合うことと同義だ。そして——その歴史は、滅びへと続いている。
昼下がりの回廊は、夏の気配が濃い。
風が吹けば、薄い障子がわずかに鳴り、花の香が微かに漂ってくる。
私はすみれに伴われて、城内を歩いていた。
目的地は、秀吉の待つ奥の間。重々しい空気の中で、私の足音だけが異物のように響く。
「御方様、くれぐれもお気をつけて」
すみれが囁くように言う。その言葉には、形式的なもの以上の何かが含まれていた。
私のことを、心から案じてくれている。そのことが痛いほど伝わる。
襖が静かに開かれ、私は一歩踏み込んだ。
そこにいたのは、豪華な装束を纏いながらも、どこか老いと疲れを滲ませた男——豊臣秀吉だった。
「来たか、茶々」
その声音は、柔らかい。けれど、その柔らかさは、蛇が獲物を絡め取るような気配に満ちている。
「はい……お呼びに従いまして」
私は深く頭を下げた。心は凪いでなどいない。足元がぐらつくような不安と恐怖。だがそれを見せてはならない。
私は、彼にとって“寵姫”であり、やがて“母”となる存在なのだから。
「そなたの目は、なぜに冷たい?」
突如、秀吉が顔を近づけてきた。
呼吸が止まりそうになる。けれど私は、目を逸らさず、絞り出すように答えた。
「……過日、夢を見ました。それで、心乱れております」
「夢、か……。夢でよい。現は儚きものじゃ」
そう言って笑うその顔に、私はぞっとした。
この男は、自分の運命さえ弄ぶ。いや、弄んでいるのは私の運命の方か。
部屋を出たとき、私は深く息を吐いた。
喉の奥に残るのは、酒でも香でもない、秀吉の存在そのものの重さ。気配が、空気に染みついているようだった。
「御方様、大丈夫でございますか?」
すみれが小走りに駆け寄ってきた。
私の顔を覗き込むその瞳には、心配と苛立ちが入り混じっている。
私を案じる気持ちと、どうにもできない無力感——それが彼女の沈黙に滲んでいた。
「……なんとか。けれど、あの人は……」
言葉に詰まる。
あの人——秀吉は、笑顔の下に、狂気を隠している。理屈も理性も通じない、その混沌が、私を飲み込もうとしているのだ。
「逃げられぬのです、この世界では」
すみれが静かに言った。
それが誰かの命を救うためでも、自分を守るためでも——時に選べる道はひとつしかない、と。
私は彼女を見つめた。
この世界で、ただ一人、私の“中身”を知らないまま、それでも寄り添ってくれている存在。
そして、きっと——この先も共に歩いてくれる存在。
「すみれ、貴女がいてくれてよかった」
私が言うと、すみれはわずかに目を見開き、やがて微笑んだ。
「私は、御方様の影にございます。どこまでも、お供いたします」
その言葉が、檻の中でわずかに吹いた風のようだった。
私をほんの少しだけ、自由にしてくれた。
夜、帳が降りた大坂城は、昼間とはまるで別の顔を見せる。
静寂が支配する中、燭台の火だけが、ゆらゆらと揺れていた。
私は、自室の縁側に座っていた。着物の裾を整えながら、遠くの闇を見つめる。
城の外には、現代がある。電車の音も、アスファルトも、スマホも、なにもかも、あの世界はこの目には映らない。
この世界に来て、何日が経っただろう。
歴史オタクだった私は、ある程度の知識はあるつもりだった。けれど——だからこそ、知ってしまっている。
この先に待つのは、滅びだ。豊臣家の終焉、そして淀殿の悲劇的な最期。
変えられるはずだった。
そう信じていた。転生という奇跡が起きたのなら、運命を捻じ曲げることだってできるはずだと。
だが、違った。何をしても、歯車は元の道をなぞる。
「ねえ、すみれ。もし、私がこの運命を変えようとしたら……どう思う?」
沈黙の中、すみれは少しだけ間を置いてから、答えた。
「それが御方様のご意志であれば、私は従います」
言葉は淡々としている。でも、その奥には確かなものがある。
この人は、私のことを信じてくれている。立場でも名でもなく、“私自身”として。
「けれど……変えられぬとしたら?」
「それでも、私は共に参ります。最後まで、御方様の傍に」
縁側を風が吹き抜けた。蝋燭の火がわずかに揺れる。
そのとき私は、この戦国という時代で、確かに“今”を生きているのだと感じた。
翌朝、私は久しぶりに城の庭へ出た。
庭の手入れは隅々まで行き届き、花々は季節を映して静かに咲いている。
けれど、どれだけ花が咲こうとも、私はその景色に“美しい”と素直に言えなくなっていた。
これは檻だ。
どれほど飾られていようと、どれだけ大切にされようと、自由ではない。
そして私は、その“檻の中の姫”であることを強いられている。
「御方様。茶々様」
名を呼ばれて振り返ると、そこには浅井長政の面影を宿す少年——秀頼がいた。
まだ幼さを残したその顔は、どこか父とは異なる気高さを感じさせた。
「母上、お花が綺麗ですね」
私は微笑んで頷く。
この子がいずれ、戦火の中心に巻き込まれていく。その未来を知っているからこそ、無力感に襲われる。
「そうね、綺麗ね……。でもね、綺麗なものほど、儚いのよ」
思わず出た言葉に、自分でも驚く。
こんなことを口にするようになったのは、この世界での時間が、それだけ私を蝕んでいる証かもしれない。
秀頼は首を傾げ、何も言わずに手を握ってきた。
その小さな温もりが、どうしようもなく胸に刺さる。
「この手を……離さないで」
私の中の“しおり”がそう呟いた。
未来を知るがゆえに、ただ見送ることしかできないのだとしたら——せめてこの手だけでも、最後まで守りたい。
城の奥深くで、秀吉はまた一人、笑っていた。
その笑みは歓喜か狂気か、誰にも判別できないほどに歪んでいた。
だが、私の心にはもう一つの確かな灯があった。
すみれという影が、揺るぎなく私の隣にいる。
「御方様、これからもずっと」
彼女の言葉が、私の胸を震わせた。
歴史の檻の中で、私は孤独ではなかった。そう、少なくとも“今”は。
秀頼を守り抜く。
この手で、命を繋ぐ。
滅びの運命を前にしても、私は自分の信じる道を歩むのだ。
たとえどんな未来が待っていようとも——。
⸻
その日、私は新たな決意とともに、暗闇の中で目を閉じた。
まだ見ぬ明日を信じて。
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