第一章・第四話『虎の間』

夜気がひやりと頬を撫でる。

 障子を通した灯火が、部屋の中に淡く揺れていた。


 秀頼は、小さな寝息を立てて眠っている。

 まだ幼いその横顔は、血筋や立場といった重い言葉からはほど遠く、ただの子どもの安らぎに満ちていた。


 私はその寝顔を、膝を抱えるようにして見つめていた。

 ――守らねばならない。

 何度繰り返しても、その思いは弱まるどころか、日を追うごとに強くなっている。


「御方様……まだお休みになられていないのですね」


 障子の外から、静かに声がした。

 すみれだ。


「入って」


 音もなく襖が開き、すみれが畳に膝をつく。

 白い頬が少し紅潮しているのは、廊下を駆けてきたせいだろう。


「城内で、また噂が立っております」

「噂?」


 私は思わず声をひそめた。

 すみれは小さくうなずき、こちらに身を寄せる。


「近頃、太閤様が……側室や家臣に対し、厳しい処分を下されていると」

「……処分?」

「逆らう者、気に入らぬ者、あるいは……些細な失言をしただけの者も、遠国に追放されたり」


 思わず眉をひそめる。

 確かに、あの人――秀吉はかつて柔和な笑みを見せることも多かった。

 けれど、このところの彼からは、それがすっかり消えているように感じていた。


「御方様は……絶対に、巻き込まれぬように」


 すみれの声は真剣だった。

 私は秀頼を見やり、小さく息をつく。


「……心配してくれて、ありがとう」


 けれど、私が何もしなければ、この子はどうなるのか。

 未来を知る者として、その答えは痛いほどわかっていた。


 外では虫の声が、途切れ途切れに響いていた。

 秋の気配は深まり、そして――権力の影もまた、濃さを増していくように思えた。


翌朝。

 まだ空が白みきらぬうちに、城の廊下を急ぐ足音が近づいてきた。


「御方様、太閤様よりお召しです」


 低く、事務的な声。

 顔を上げると、使いの侍が無表情でこちらを見ていた。


 胸の奥がざわつく。

 ――ついに来たか。


 すみれが心配そうに私を見る。

「御方様……」

「大丈夫」

 そう答えながらも、声の奥がかすかに震えた。


 支度を整え、すみれと共に城の奥へ進む。

 廊下は長く、やけに静まり返っている。

 足音が、板張りの床に乾いた響きを残すたびに、その音が自分の心臓の鼓動と重なった。


 やがて、金箔を貼った襖が目の前に現れた。

 その中央には、迫りくるような虎の姿が描かれている。

 鋭い牙、爛々と光る双眸。

 ただの絵のはずなのに、視線を外すことができなかった。


「こちらが……虎の間」

 すみれが、ほとんど息をのむようにささやく。


 襖が静かに開かれる。

 中から、異様な熱気があふれ出た。

 香の匂いが濃く漂い、目の奥にまで染みる。


 広間の中央に、秀吉が座していた。

 豪奢な小袖に身を包み、その周囲には家臣たちが控えている。

 だが、誰も笑っていない。空気は張り詰め、まるで一言で何人もの命が決まる場所のようだった。


「……おお、よう来たな、茶々」


 秀吉の声は低く、しかし抑えた響きの奥に鋭さがあった。

 幼いころから顔を知るはずの彼が、今は遠く、別人のように見える。


 私は膝をつき、深く頭を下げた。

「お召しにあずかり、恐れ入ります」


 秀吉の視線が、私をゆっくりとなぞる。

 その瞳には、温情も柔らかさもなかった。

 まるで虎が、獲物との距離を計っているように。


「最近、城の中でいろいろと耳にすることがある」

 その言葉に、背筋が凍る。

「女というものは……ときに口が軽い。わしの知らぬところで、余計な風が吹くのは困る」


 誰かが息をのむ音がした。

 すみれの手が、私の袖をそっとつかんでいる。冷たい指先が震えていた。


 ――試されている。

 この場で一つ間違えれば、ただでは済まない。


「太閤様のお心に沿えるよう、努めます」

 そう答えると、秀吉の口元がわずかに動いた。

 笑ったのか、それとも獲物を面白がる笑みなのか、判別できなかった。


「よい」

 その一言で、場の空気が少しだけ緩んだ。

 だが、私は知っている。

 この虎は牙を引っ込めたわけではない――ただ、次に噛みつく時を待っているだけだ。


秀吉はゆるりと立ち上がり、歩み寄ってくる。

 その足取りは音もなく、しかし確実に間合いを詰めてくる虎のようだった。


「茶々、お前も分かっておろう。豊臣の家は、もはや昔のように磐石ではない」


 その声は、柔らかな調子を装いながらも、底には鋼のような冷たさがあった。


「だからこそ、わしはお前を――」

 そこで言葉を切り、私の目を真っ直ぐに見据える。

「……縛っておく必要がある」


 心臓が、耳の奥で大きく脈打つ。

 これは脅しではない。宣告だ。


 秀吉は再び座に戻ると、傍らの家臣に何事か耳打ちした。

 家臣が立ち上がり、私の前に膝をつく。


「太閤様よりのお達しにより、御方様には城外への外出を控えていただきます」


 控える――それは婉曲な言い方だ。実際は軟禁に近い。

 私の自由は、今この場で剥ぎ取られたのだ。


 言い返すことはできない。

 いや、もし反論したら、その瞬間に何が起こるか分からない。

 だから、ただ深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 沈黙の中、香の煙がゆらめき、虎の間の金箔の壁に陰を落とす。

 その虎の瞳は、まるで私をあざ笑っているようだった。


 退出を命じられ、襖が再び閉まる。

 外に出た瞬間、ようやく肺が空気を取り込む。

 息が苦しかったことに、そこで気づく。


 すみれが小声でささやいた。

「……御方様、無事でよかった」


 その声に、胸の奥が少しだけ緩んだ。

 たとえ虎の檻の中にいようとも、この手を離さない人がいる――それが、どれほどの救いになることか。


 だが同時に、私は悟った。

 すみれを守るためにも、この檻の中で生き抜く術を身につけなければならない、と。


軟禁と言っても、牢屋に入れられるわけではない。

 私の居所は変わらず、豪奢な障子や屏風に囲まれ、食事も下賜される。

 だが、廊下には常に二人の侍が立ち、出入りする者は限られていた。


 昼は、形式的な茶や文を運ぶ女中たちの姿が見える。

 しかし、彼女たちも余計な言葉は発しない。

 いや、発せられないのだろう。すべては監視の目の下にある。


「御方様、夜風に当たられますか?」

 すみれが障子をそっと開き、月明かりを引き入れた。


 庭は静かで、松の枝が風に揺れていた。

 その向こう、見えぬ城壁の外に広がる町や人々の気配を想像する。

 もう、あの雑踏に足を踏み入れることはできない。


 私は縁側に座り、膝の上に手を置いた。

 すみれは少し後ろに控えていたが、その距離感がやけに心地よかった。


「……怖かった」

 自分でも驚くほど弱々しい声が、口からこぼれた。

 虎の間での秀吉の視線、あの声の底にある何か――思い出すだけで背筋が冷える。


 すみれは一歩近づき、私の横に膝をついた。

「大丈夫です。わたしが、必ずお守りします」


 その声は、私の中に残っていた緊張を溶かしていく。

 この城で、秀吉に近づける女は多くない。

 だが私のすぐ傍にいて、私の心の中に踏み込んでくるのは、この少女だけだ。


「……無理はしないで」

「無理でも、します」


 迷いなく返されたその言葉に、何かが胸の奥で固く結ばれた気がした。


 その夜、私は決めた。

 史実がどうであろうと、すみれだけは生かす。

 もし自分の運命が覆せないのなら、せめて彼女の未来だけは――。


 遠くで、城下の太鼓の音が響いた。

 それは時を告げるだけの音のはずなのに、なぜか不吉な鼓動のように聞こえた。

 豊臣の家が、静かに崩れていく前触れのように。

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女子高生、淀殿に転生す。滅びゆく豊臣家で私は—— 山飛 @yamappy

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