第7章
記録室の奥で、鷹野京介の指が静かに踊っていた。
旧政府開発者・湊 昴の残したプログラム。そのコードの奥底に潜ませた“切り札”を引き出し、AI中枢の中枢演算領域へ侵入する。それが、彼に与えられた唯一の役割だった。
「……コード7、侵入開始。干渉ルートB−3を展開……」
京介の表情から、いつもの皮肉も嘲笑も消えていた。ただ、凍てつくような集中がその目に宿っている。
彼の背後では、白峰詩織と美園椋が見守っていた。
詩織は非常用通信端末を握りしめ、何かを押し殺すように唇を噛んでいる。
一方の椋は、無言のまま、レーザー銃を手にして記録室の扉に目を向けていた。
碧翔と星良もその場にいた。シキの古びた端末の脇に立ち、京介の動きを見つめる。誰もが、息を詰めていた。
──その瞬間。
端末の画面が急変する。
青白いコード群の奥に、赤く光るセキュリティアラートが立ち上がった。
《不正アクセスを検出。対象コード:旧管理者アクセスキーD-02》
《中枢AI防衛プロトコルC7を発動》
《アクセス元の座標を特定。制圧部隊を展開します》
「……っち、やっぱり来やがったか」
京介の声に、緊張が跳ね上がる。
詩織が声を震わせる。「逃げなきゃ……! 位置が……!」
「EMPドローンが来るぞ」
シキの落ち着いた声が、空気を刺すように響いた。
天井がわずかにきしみ、低周波の振動が記録室を包む。
気圧が変わる。空気が、金属の匂いを帯び始める。
「京介くん、もうやめて……!」
星良が叫んだ。
だが、京介は首を振った。「今止めても意味ねえ。ここまで来たら、何かを残せるかもしれない」
天井が炸裂する音と共に、黒い影が落下してきた。
AI戦闘兵器――それも、殺傷特化型。赤いセンサーが音もなく回転し、記録室内の全員をスキャンする。
詩織が避難経路の端末を睨みながら叫ぶ。「裏通路、反応あり! でもあと数分で封鎖される!」
碧翔が前に出ようとするが、それよりも早く、椋が動いた。
無言のまま、AI兵に向けてレーザー銃を発射する。正確な一撃が兵器の装甲をかすめた。
「3秒、止めた。次は無理です」
冷たい声。だが、確かにその一言で時間が生まれた。
「……君たちは、逃げろ」
突然、シキが前へ出た。
老いた背中が、京介の前に立ちはだかる。
「何を……!」
碧翔が驚いて叫ぶが、シキは微笑んだまま振り返らなかった。
「京介くんは最後までやり遂げるつもりだ。それを守るのが、今の私の仕事だ」
「でも……!」
「君たちは、生き延びろ。京介くんの背中に、“未来”を託すんだ」
碧翔と星良は、言葉を失ったまま、床に転がったデータパックを拾い上げる。
詩織も涙をこらえて、避難用端末を抱えた。
「シキさん……生きてください」
星良が最後にそう言った。
シキは微笑んだまま、答えなかった。
銃声、爆発音、金属の軋む音が、記録室を呑み込んでいく。
その中でも、京介は最後の一撃をコードに込めて、ターミナルへと指を走らせ続けた。
逃げてきたはずの避難拠点に、安心はなかった。
白峰詩織、美園椋、そして碧翔と星良の兄妹は、廃ビル地下の旧設備室に身を隠していた。
「……ここも、長くはもたないと思う」
詩織の声は震えていた。
碧翔は黙ったまま仲間の顔を見渡す。そして、ふと、椋の指先に視線が止まる。
袖の奥で、何かを操作していた。小型通信機。赤いランプが、かすかに点滅していた。
「椋、それ……」
碧翔が近づくと、椋はそっと手を引っ込めた。
「見たか」
乾いた声。
「……誰に通信してた?」
「国家だよ」
その場が凍りつく。「ずっと前から、情報を送ってた。出入り、人数、拠点の場所……」
「嘘でしょ……」
詩織が顔を青くする。
「向こうは、生活の保証をくれた。食事も、寝る場所も、身分も。普通に生きていくために、それだけで十分だった」
「人を売って生き延びるのが“普通”なの?」
星良の声が震える。
椋は一瞬だけ、目を伏せた。
「俺は……一家心中から生き残った。睡眠薬だった。父も母も、……死んだ。俺だけが、朝起きたんだ」
静寂。
「正しさなんて、何も助けてくれなかった。だから俺は、生きる方を選んだ」
そのとき、裏扉が軋む音がした。
「星良が……いない……!」
詩織の悲鳴に、碧翔が飛び出す。
廃ビル裏の階段下。
星良は国家の武装部隊に押さえつけられ、車両へと押し込まれていた。
「やめろおおおッ!」
碧翔は叫び、突進する。
警棒が腹に叩きつけられた。視界がぐにゃりと歪む。
それでも、星良の手を掴んだ。
「にいちゃん……!」
星良が涙をこぼす。
碧翔は全身の力を込めて、彼女を引き戻す。
兵士たちは撤退したが、その場に兄は崩れ落ちる。
――その背後で、銃声。
詩織が叫ぶ。
「椋が……撃たれた……!」
国家は、彼を用済みにしたのだ。
その直後。詩織は一人、ビルの階段を駆け下りていた。
怒りと悲しみで足元がもつれ――手すりに掴まれず、体が宙を舞う。
硬い音が、誰にも届かない場所で響いた。
星良は泣きながら、兄の体を引きずって逃げていた。
血まみれの碧翔の顔は青く、すでに意識が朧げだった。
「もう少しだから……もう少し……!」
兄は、かすかに微笑んで言った。
「生きろよ……星良……お前だけは……」
「一緒に……生きるって言ったのに……!」
その叫びが、乾いた風に消える。
夕暮れが二人の影を伸ばす。
そのとき――。
「発見。対象、2名確認」
追加の国家武装部隊が、すでに背後に迫っていた。
星良は兄の体を庇うように背を向けた。
「撃たないでぇぇぇ!!」
数秒の静寂。
そして、銃声。
一発、また一発。
星良は碧翔を抱きしめたまま、奥に倒れ込んだ。
兄の肩で眠るように倒れる星良の目には、最後に走馬灯のような映像が映っていた。
――あの日、兄の背中を追いかけた田舎道。
――自転車の後ろ、風が心地よかった夏の夕方。
――兄が笑っていた。
数分後。
その場所には、血の跡だけが残されていた。
国家の記録には、何も残らなかった。
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