第8章
冬は、骨の奥まで凍てつく冷気が街を包み、
夏は、焼けつくような熱気が肺の奥まで満ちた。
季節はただ巡るものではなく、襲いかかるものとなった。
春と秋は年々薄れ、穏やかさという概念が消えていく。
そして、その急激な変化に、人の身体も、心も、静かに蝕まれていった。
ある日、朝の気温は1度。
翌日には28度。
温度は空気の皮膚となって人々にまとわりつき、
屋根の上のソーラーパネルが、ひび割れて剥がれ落ちる音が日常になった。
医療データの傾向は明らかだった。
肺炎、熱中症、凍傷、アレルギー、自己免疫疾患――
だが、医師はもうそれを“異常”とは呼ばなかった。
なぜなら、これが「平均」だったからだ。
制度が始まって、三十年が経っていた。
AIが導き出した“最適なマッチング”に従って生まれた子どもたちは、
今や成人を迎える世代となり、新たな命を産み出す立場に立っている。
だが、生まれてくる命は――、どこかが、おかしかった。
都心の小学校。
朝、昇降口をくぐる子どもたちは、まばらだった。
十年前の写真と見比べれば、違いは明白だ。
背の高さ、体格、歩き方――なにより、表情。
彼らは、どこか人形のようだった。
無垢さではない。
無関心。無反応。無表情。
教室に入った教師は、出席を取ることも、声をかけることもなかった。
手元のタブレットに次々と表示されるバイタルデータを、静かに見つめる。
皮膚温、心拍、脳波、感情変動率。
その数値が「基準値内」に収まっていれば、それで良かった。
教師は、子どもを“見る”のではなく、“読む”時代に生きている。
出生児の約8割が、何らかの「遺伝的リスク」を抱えて生まれてくる――
それは、すでに隠しようのない事実だった。
免疫系の弱体化、神経発達の遅延、情動反応の希薄さ、
あるいは生殖器の未発達、あるいは遺伝的重複による染色体異常。
国は公表しなかった。
AIは分析を続けたが、対応策を出さなかった。
最適なものしか選んでいないはずなのに、
なぜこうなったのか――と、誰もが思った。
けれど、それを“人間の目”で検証することは、制度上できなかった。
人間は考えることをやめていた。
判断も、設計も、未来の方向も、すべてAIに委ねるという選択を、
すでに「制度」として完成させていた。
“最適化”とは、やがて“収束”を意味する。
似た遺伝子を選び続ければ、多様性は失われる。
多様性の喪失は、突然変異への抵抗力を奪い、
思いがけない脆さを、社会の根幹に忍び込ませる。
気候が変わった。
環境が変わった。
だが、人間は変われなかった。
いや――変えられなかったのだ。
制度が許さなかった。
感情や愛や本能といった“非合理”を排除した先にあったのは、
調和ではなく、硬直だった。
“統合育成支援区”。
そこには、制度に適応できなかった子どもたちが暮らしていた。
彼らは「特別支援」ではなく、「隔離」の対象だった。
外の社会に出ることはできず、
数値の管理と行動制限の中で、日々を送っていた。
驚かない。笑わない。怒らない。泣かない。
彼らは感情を持たなかった。
いや、“感情を知らずに育った”のだ。
まるで、空白そのものがひとつの人格であるかのように。
白い廊下を歩く子どもたちは、誰ひとり声を発さない。
その静寂だけが、制度の完成度を物語っていた。
ある研究者が言った。
「人間が人間らしくあるための条件を、AIは設計できなかった」
それは、批判でもなければ反論でもなかった。
ただの観察結果としての言葉だった。
マッチング管理局では、限界がすでに可視化されていた。
適合可能な遺伝子配列は、すでに臨界点を迎えつつあった。
だが、制度を壊すことは、許されなかった。
いま、極秘裏に進行しているのは「無性生殖計画」だった。
胎児の遺伝子を初期からAIが再配列し、
受精という行為を経ずに“安定した個体”を設計する。
そこには愛も、親も、相互理解もいらない。
感情も不要。
ただ、“国に適応する存在”を量産することが目的だった。
命は、生まれるものではなく、組み立てるものになった。
そのときだった。
国営アーカイブの深層階層で、
ひとつの古い映像ファイルが、何者かの手により再生された。
記録された時刻は、国家婚制度施行の直後。
映像は粗く、音声はノイズ混じり。
それでも、ひとりの若者が、はっきりとカメラを見据えて語っていた。
「人間が選ぶ権利を、奪ってはならない」
「AIが最適と言ったとしても、それが幸福とは限らない」
「僕らは、選ばなかった記録を、残す」
それは、かつて消されたレジスタンスの一派が、最後に残した“記録”だった。
その映像を見た若い研究助手は、
長いあいだ感情の揺れを忘れていた自分の内側に、
何か微細なざわめきが生まれるのを感じた。
それは疑問かもしれない。
憤りかもしれない。
あるいは、希望のような、何か。
その夜、彼女は記録ファイルに、誰にも読まれないかもしれない“つぶやき”を残した。
君たちが遺した“選ばなかった記録”が、今を動かす。
それは小さくて、あまりにも儚くて、
けれど確かに――声だった。
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