第19話:まどろみの中で

 シーツに残る彼女の香りと腕のしびれに導かれ、遥はゆっくり目を開けた。

 昨夜つけられた爪の跡が、細い線となってかすかに盛り上がっていた。

 その跡に触れると、彼女の指が強く絡んできたときのことを思い出した。


 みのりが小さく身じろぎした。

 長いまつげが揺れ、半開きの唇から穏やかな寝息が漏れていた。

 その寝顔に、遥は見とれていた。


 やがて、彼女がまどろみの中でまぶたを上げた。

 焦点を探すようにまばたきを繰り返し、その視線が遥にゆっくりと合った。


「……おはよう」


 聞いたことのないかすれ声を耳にして、遥は思わず笑いそうになった。


「おはよう。……よく眠れた?」


「ん……うん。……ずっと、ハルくんの匂いがしてたから」


 みのりはそう言って、気の抜けたようにふにゃりと笑った。

 その無防備な表情に、今朝見た寝顔を思い出した。


 二人はやがてベッドを離れ、それぞれ支度を始めた。

 みのりが遥の前で躊躇なく服を脱ぎ、新しい服に袖を通した。

 昨夜を境に、二人の間にあった見えない壁が消えていた。


 鏡に向かいながら、彼女がぽつりとつぶやいた。


「……なんだか、全部夢みたいだったね」


「ほんとにね」


 短い返事の裏で、これまでにない種類の責任が芽生えたのを感じていた。


 チェックアウトの時刻が迫り、壁に設置された古い精算機の前に立った。

 受話器を取ると「○○円になります」と事務的な女性の声がした。

 テーブルの端に置かれた封筒に二人で出し合った現金を入れ、遥が「これで合ってるかな……」とつぶやくと、みのりも「たぶん?」と首をかしげた。

 封筒を投入口に差し込む無機質なやり取りが、さっきまでの温かい時間を急に現実に引き戻した。


 ひと呼吸おいて、みのりがささやいた。


「……またこうして、二人で朝を迎えられたらいいな」


 彼女はうなずいてほしいとでもいうように遥を見つめた。

 返事に迷っていると、しばらく沈黙が続いた。


「そうだね……また、こうして」


 機械音とともに、硬貨と領収書が受け皿に落ちた。

 その金属の音が、夢の終わりを告げる合図に感じられた。


 自動ドアの先で、水音を立てながら清掃車が通り過ぎた。

 澄んだ空の下を、二人は肩を並べて駅へ歩いていった。

 言葉はなかったが、遥は触れそうで触れない指先のことばかりを意識していた。


 みのりも同じことを考えているのだろうか。


 ゆっくりと改札が見えてきた。

 日常の世界が、少しずつ視界に戻ってきた。


 改札を抜けると、人影のまばらなホームに出た。

 まだ朝早く、駅員の声だけが構内に届いてきた。

 遠くで電車のドアが閉まる音がして、やがて静寂が戻ってきた。


 そんな中、オレンジの帯を巻いた銀色の車体がこちらのホームに入ってきた。

 車内に入ると、生ぬるい暖房が全身を包んだ。


 みのりはあくびをして、こてんと遥の肩に頭を預けた。

 窓の外では、高層ビル群が遠ざかり、住宅街の屋根や公園がまばらに続いた。

 三鷹をすぎるころには、線路脇に緑が顔を出し、その向こうに低い山並みの気配が混じり始めた。


 遥が手を伸ばすと、重ねた指先がかすかに動き、彼女が力を抜いたまま握り返した。

 やがて小さな寝息が、ゴトン、ゴトンと一定のリズムを刻むレールの音に混ざった。

 その音に揺られながら、遥はこの穏やかな横顔を見つめた。


 こんな朝が、もう一度、いや、できるなら何度でも訪れればいいと願った。

 そう願うこと自体が、やがて訪れる別れの時間を、より強く意識させてしまうように思えた。


「まもなく、はちおうじー。お出口は、右側です」


 無機質なアナウンスが、別れの時を告げた。

 電車が止まると、みのりはゆっくりと身を起こした。


「……また、連絡するね」


「またね」


 改札の向こうへと遠ざかる華奢な背中。

 遥は、その姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。


 乗り換えのために階段を降りると、構内の寒い空気が足元に流れてきた。

 駅前のロータリーではバスが止まっていて、歩道を照らす街灯がまだついていた。


 家に着くと、玄関に父の靴はなく、母だけがリビングでテレビを見ていた。

 顔を見るなり、にっこりと笑ってたずねた。


「楽しかった?」


「……うん」


 母はそれ以上は聞かず、「朝ご飯できてるから食べなさい」と言った。

 湯気の立つ味噌汁と、炊き立てのご飯、箸先から立ちのぼる香りに、思わず腹が鳴った。


 食事を終えると、自室の布団にもぐり、目をつぶった。

 みのりの寝息と、抱きしめた感触を思い出しながら、遥は朝の透明な世界をひとりで味わった。


 それからの冬休みの日々は、だらだらと過ぎていった。

 朝はみのりからの「おはよう」に短く返事をし、昼は「今日、狩りどう?」のメールに返事をした。


 会えない日も、携帯にみのりの名前が表示されるたび、二人の関係はまだ続いているのだと思えた。


 カレンダーの最後のページが近づき、大みそかがやって来た。

 リビングから紅白歌合戦の音が聞こえる中、メールのやり取りは続いた。


『もうすぐ年越しだね』


 彼女からのメールを、遥はベッドの中で読み返した。


『みのり、今年はいろいろありがとう』


『こちらこそ。来年もずっと一緒にいられますように』


 遥は、もう一言だけメールを打った。


『ねえ、年明けたら、初詣行かない? 高尾山、まだ登ったことなくて』


『ほんと? いいね。人混みやばそうだけど、楽しそう!』


『一緒におみくじ引こうよ』


『おみくじかぁ……大吉ならいいなぁ……まぁ、ハルくんとならどこでも』


『じゃあ、詳細は明日決めようか』


『おっけー、楽しみにしてるね』


 除夜の鐘が遠くで鳴り始めた。

 新しい年も、この時間の続きにあると信じながら、遥は携帯を閉じた。

 窓の外では、夜が更けて明かりがひとつずつ消えていった。

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