第11話 旅立ちの洗礼
暖かさを含んだ日の光と、暖かい春の息吹を受けて山間の雪が解けた。
暮らす家から少し離れた場所にある、自分達の為の畑に、根菜と葉野菜の種を蒔いた。”蒔き人”3人で蒔いた種は、確実に芽吹く事だろう。
「ここで種を蒔けるという事は、下界では本来なら種蒔きは終わっている筈なんだ。少しでも、種蒔きが終わっている光景が見られる事を願おう。」
種を蒔き終えて、旅装になった3人は、流熊にしばしの別れを告げる。
流熊は、この場所からは離れない犬だからだ。
「次に帰るまで、畑を頼むよ。」
波差は流熊の毛深い毛に顔をうずめて、別れを惜しんだ。
流熊のは尻尾を振って、それに答えた。
「さて。まずは、東に向かおうか。」
老師は、そう言って東側に降りる道に向かって歩み始めた。
道と言われても、それは道には到底見えない。獣が通った跡さえない、樹木が生い茂ったただの薮だ。
困惑して後に続く弟子達の思いを知ってか
「あの木が目印だ。覚えておくように。」
老師は、1本の木を指刺した。
その樹木は、葉替わりだった。枝の一部が黄色くなって、他の緑の葉の中にちらほら見えている。
「道の目印に、東西南北、周囲の樹木とは違う毛色の木が植えてある。よく見れば判別出来る。」
とはいえ、道なき道を歩く事に違いはなかった。
薮の中を、搔き分け搔き分け進むのは、随分と骨が折れた。
『本当に、この道で合ってるのか??』
波差は前を行く師匠の背中に張り付くようにして、枝の攻撃から顔や手が傷付くのを守った。厚手の毛の前当てと、腕当てを着けた意味が、ここに来て納得だった。薮を歩く為の装備品だったのだ。
後ろを歩く多羅が、波差が避け切れない枝を受け止めて、波差を守ってくれていた。多羅は背が高いので、自分が枝を避けるのも一苦労だろうに。
そんな悪戦苦闘の末に、何とか山の中腹まで下って来たようだった。
目の前の師匠が、足を止めて、しばし。
気配を殺して、薮の中に潜んで、周囲の状況を耳をそばだてて探る3人。
どうやら、少し先で街道に出るようなのだが、何とも言い難い不穏な気配がしているのだ。
人や家畜が通る気配はしない。ただ、人が行き交うだけなら、その場をやり過ごせばいいだけだ。だが、周囲の空気がピリピリしているように感じる。虫さえ気配を殺しているような緊張感が”危険”を教えている。
もう、随分背を低く構えて、動かずに居る気がする。脚がぷるぷるするし、背中の荷が重く感じる。
「波差。気を散らすな。」
老師が、背に隠した波差に小さく叱責の言葉をかけた、その時!
潜む薮に向かって、数本の矢が撃ち込まれて来た。
その全てを、最前にいる師匠が受ける事になった。
咄嗟に、顔をかばって腕で2本は受けたが、どれかが、老師の胸に刺さった。
老師は声を立てる事無く、動きもせずに、耐えた。
弟子達は、声も出ない程に驚いた。
「あれ~。手応えあったと思ったけどなあ。飛び出して来ないね~。」
間延びしたような、若い男の声がした。他に、数人が居るようだ。
「おーい。居るのは分かってるよ~。出て来ないなら、こっちから行くよ~。」
老師は、屈めていた脚を伸ばして立ち上がった。
胸に刺さった矢を、自分で抜くと、そのまま持って前に進み始めた。
後ろ手に”止まれ”と弟子たちに指示を示して。
「あれ?1人?後2人位居る気配だったと思ったけどなあ。」
その若い男は、薮から現れた老人を見て、残念そうに言った。
そこには、4人の痩せた賊達が居た。どの顔も髭面で、血色が悪く、衣服も汚い。
若い男は再び薮の方を見た。そして、手にした小弓にいっぺんに3本の矢をつがえると、老人の後ろの薮に向かって放とうとした。
老人は、その矢の軌道を塞ぐように、体をずらした。
「ほら~。残りがいるじゃ~ん。」
若い男は、老人を挑発するように、軽い口調で後ろの薮に向かって呼びかけた。
「隠れている奴~。出てこないと、この爺さん射殺しちゃうよ~。」
その言葉が終わる前に、老師が動いていた。
眼前の若い男に一歩で肉薄すると、手にした弓を持つ手を後ろに捩じりあげた。
痩せた手首だった。
堪らず男は弓を取り落としたが、腰に刺していた短剣を抜いて、背後に回った老人の腹に、逆手で刺し込もうとした。
だが老師はその逆手を上手にねじ曲げて、短剣さえ取り落とさせた。
尚も男は腰を落として、老師の隙を突こうとしたが、老師は捩じ上げた腕を下げて身体ごと地面に座らせる。
「そんな動きをしたら、お前の肩の骨が壊れるぞ。」
老師がそう言った刹那、地面に着けた尻を起点に足を振り上げて、老師に蹴り技を仕掛けて来た。
老師は難なくそれを避けると、肩を膝で押さえ、握っていた腕をぐいと上に持ち上げた。
ゴキッと骨の音がした。男は苦悶の悲鳴をあげた。
「ほら。壊れた。」
男は、地面に突っ伏してだらんと両腕を垂らしたままで、痛みに悲鳴を上げながら起き上がれないでもがいている。
周囲の賊達が、腰の刃物を抜いて、一斉に老師に突きかかって来た。
老師は一番近くに居た者の刃を腕の手鎧の毛皮で受けると、その腕を掴んで、くるりと回し、目の前に迫る刃を、その男の腹に受けさせた。
刃が2本、痩せた賊の腹に2方向から刺さった。手入れのされていない、錆びた金物の刃だった。元は、農機具の鋤か鍬だった物だろう。
その刃を見た老師は、仕方なくそのまま、その男を前に押し出した。錆びた刃が、更に深く刺さり、男は痙攣し始めた。
そうしながら、狼狽している左手側の賊の向う脛に重い蹴りを入れた。膝の骨が外れて、悲鳴を上げながら、男がくずおれた。膝を抱えて、泣き叫んでいる。
残る1人は、仲間の腹に埋まった自分の刃物から手を外した。手は血のりで汚れている。
驚愕し、怯えた瞳で、老人の顔を見て、震え始めた。
老師は、腹に刃物を埋めたまま、絶命できずに唸り始めた男から手を離した。その男はもがいて、口から血の泡を吹きながら声にならないうなり声を上げ、地面にうずくまって尻から糞をひり出し始めた。
「私達を、そんな刃物で、こんな風に殺す筈だったんだろう。他にも、何人もこんな目に合わせたんだろう。」
肩の骨を痛めた男の泣き声と、膝を抱えて泣く男の泣き声と、腹を刺された男の唸り声が、耳に響いている。
「自分達が、やられる側に回っただけだ。たかが年寄り一人に。」
老師は、どこまでも冷たく言い放つ。
「仲間を、早く楽にしてやれ。お前を生かすのは、その為だ。」
そう言うと、腕に刺さったままだった矢を抜いた。
「これでとどめが刺せるだろう。返しておく。」
矢を地面に落とすと、近くに落ちていた弓を拾って、派手な音を立ててへし折って、ポイと投げ捨てた。
そのまま、振り返る事無く、元の茂みの中に姿を消して行った。
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