浄化の代償
(あの女……俺が人界に送った筈だぞ。なぜ鬼界にいる?)
大蛇(オロチ)は信じられないとばかりに、現れた巫女を凝視した。蛇のような細い目が鋭く光る。
(鬼王が連れ戻したのか?)
フッ....
ただ、戸惑いも束の間、大蛇は再び口の端を歪め、笑みを浮かべた。
「想定外……! これはこれで、愉しいかもな」
彼の視線が、鬼王と巫女の二人を見比べる。嘲笑と興味が入り混じった目が、獲物を値踏みするようだった。
一方、攻撃の手を止めた鬼王は、口を開かず立ち尽くしていた。
巫女の姿を見た瞬間、心の奥底で何かが軋む。
人間である彼女が此処にいてはならない──その動揺が波紋のように広がり、彼の妖気を乱した。
漆黒の衣が花街の風に揺れる中、鬼王の心は混乱に飲み込まれる。
「ナンだコイツは! 人間…か…?」
「人間ダ、人間の女ダ!」
巫女の登場でモノノ怪の群れが騒がしくなり
呪われたモノたちは…逆に動きを止める。
「グ...グググ...!!」
巫女の清らかな気配に本能的に恐れを抱いたのだ。黒い瘴気をまとった異形たちは後ずさった。
巫女はそんな混乱の真ん中を、おぼつかない足取りで歩いてくる。
熱で弱った身体はふらつき、漆黒の衣が彼女の細い肩に重く垂れる。
「…………ぅ」
巫女がぐらりとよろけた
その瞬間、一瞬で移動した鬼王が彼女を抱きとめた。
大きな手が彼女の細い腰を強く掴む。
「馬鹿が」
「……」
「何故此処へ来た…!」
鬼の声が低く響く。
「…すみません」
巫女は鋭い爪が肌に食い込みそうなほど強く抱かれた。
(震えている…?)
鬼の腕が、微かに震えていることに気づき、彼女の胸が締め付けられる。
「すみません…あなたの大切な鏡を、持ち出しました」
「…っ…そんなコトはどうでも良い!」
「……っ」
鬼が声を荒げた。
モノノ怪たちは二人から離れ、遠巻きに見つめている。
最凶の存在として君臨する鬼王がこれほど取り乱すのを、彼らは初めて見たのだ。
(あの巫女はもう手遅れだな)
唯一、大蛇(オロチ)だけは二人を観察し憫笑(ビンショウ)していた。
(霊力が強い者の中には妖気に耐性のある人間もいるが…だが鬼界に踏み入れたとなれば話は別だ。今だってそうとうな苦しみに違いない。じきに…肉体が崩れる)
花街の空気が、緊張と静寂で張り詰める。
「──…」
多くの目に晒される中…巫女は鬼の腕の中で静かに顔を上げた。
「…不思議、です。今のあなたからは恐怖と悲しみを感じます」
「……!」
「わたしの命が終わる事を悲しんでくださるのですか?」
そう口にした巫女は無意識に手を伸ばし、鬼の顔に触れた。
細い指が、鬼の眉間に触れ、苦しそうにシワを寄せているそこを優しく撫でる。
「…それが、慈しむ、というコトです」
「…っ、黙れ」
鬼は耳をかさないが、彼女は安心させるように微笑み、鬼の胸をトンと押した。
「離して……ください」
鬼の腕の力が弱まり、巫女は自分の足で立った。
....
天哭ノ鏡(テンコク ノ カガミ)を両手で持ち直し、周囲をゆっくりと見渡す。
呪われ、自我を失い仲間を襲う異形たち──
鬼の妖術で鎖に捕らわれ、のたうち回るモノノ怪──
同じく縛られて地面に転がされた狐族──
「──…」
巫女の瞳に決意が宿り、大きく見開かれた。
「 天津神の御名の元
古(イニシエ)の言霊に誓い立てん
春の如く柔らかに
川の如く清らかに
慈愛を手に受け、棘を解け
呪われ哀れな魂たちよ…─── 」
巫女の詠唱に合わせ、天哭ノ鏡から清らかな光が溢れ出す。ぶくぶくと泡立つように、光が増幅し、鏡の表面を白く染める。
「 ───立ち還れ! 」
瞬間、聖なる光が弾け飛んだ。
花街に集まっていた呪われたモノノ怪が、光に吞み込まれる。
黒い瘴気をまとった異形たちが、光に浴し、咆哮を上げながら崩れ落ちる。光はまるで川の流れのように、花街の路地を洗い流し、建物の影に潜む呪いを浄化する。
地面でのたうつモノノ怪たちの黒い斑が消え、血走った目が静かな色に戻る。
鎖に縛られた者たちは…苦しみから解放されるように静かに倒れた。
──
光がおさまった時、そこには呪われていたモノノ怪の亡骸がいくつも倒れていた。
先程までの凶悪な形相(ギョウソウ)は消え、もとの容貌に戻っている。
花街の空気が軽くなり、血の滲む黒い霧が薄れた。
「ハァ‥‥‥ハァ‥‥‥ハァ‥‥‥!」
巫女の身体が力尽き、ふらりと倒れかける。
それを鬼が再び受け止めた。
彼女の華奢な身体が、鬼の腕に沈んだ。
「──影尾!」
そこへ遅れて走ってきた玉藻(タマモ)が、叫びながら狐族の輪に駆け寄る。
駆け寄った先には彼女の兄である影尾(カゲオ)がいた。
「影尾!影尾!生きておるか!?無事じゃろうな!?」
「…っ…玉藻…? …これ、は、どうなってんだ…!?」
影尾は縛られたまま、血と泥にまみれた顔を上げた。
彼を侵食していた呪いの黒い斑点が跡形もなく消えていたのだ。
「オレは…? オレたちはっ…呪われたんじゃなかったのか…!?」
彼は自分に起きた奇跡を理解できないでいた。
玉藻は混乱する影尾にぎゅっと抱きつき、涙を流す。
「巫女じゃっ…、巫女が、われらを助けてくれたんじゃ…!」
彼女はそこから、鬼に抱かれる巫女を見た。
「鬼界にきたら──…っ死ぬとわかっておったのに……!」
「……っ」
「それでもっ……それなのに……巫女は」
──
鬼に抱かれる巫女の顔は青白く、息は弱々しい。
「‥ハァッ‥‥ハァッ‥‥‥‥‥カハッ!」
血を吐き出し、天哭ノ鏡が手から滑り落ちる。
それを拾おうと伸ばした細腕を、鬼が掴んだ。
パシッ.....
「…やめろ」
「‥‥‥まだ‥‥‥呪い が‥‥他の場所に」
「やめろと命じているのが、聞こえんか」
「‥‥‥」
巫女の肉体が力を失い、心臓の鼓動が弱くなる。
命の灯火が…徐々に消えゆく過程に入っていた。
霊力の多くを解放したことでその過程は速まっている。彼女の肌は冷たくなり、瞳の光が薄れる。
鬼にはどうすることもできなかった。
「──…」
彼は無力だった。
黄金の瞳が、苦しそうに巫女を見つめる。
彼女の腕を掴む手に力を込めるが、彼女を救う術はない。彼の妖術には敵を支配し、惑わし、殺すコトができても……癒す力など無いのだから。
鬼の胸に、無力が突き刺さる。
牙が覗く口元が震え、黒い衣が彼女の血で濡れる。
巫女だけが穏やかに覚悟を決めていた。
だが彼女にも心残りがあった。
(結局わたしは、…あなたを独りにしてしまう)
じわりと涙が滲む。
(なにか……なにか、あなたへ残せる物があればよかったのだけれど……っ)
彼女はもう身体を動かせなかった。それでも考えて、彼の為に何かできないのかと探してしまう。
「か‥‥鏡に‥わたしの霊力を宿し、ました。コレを使えば他の呪いも‥‥祓えます、だから」
「──…いらぬ」
「でも」
「いらぬと言っておろうが!」
鬼は耳を貸さず、声を荒げる。
彼女の命が消えゆくのを見ずにはいられず、しかし見たからといって…沸き立つのは苦しい感情ばかりであった。
巫女の青白い顔
弱々しい息
血に濡れた唇が、胸を締め付ける。
花街は静寂に包まれ、モノノ怪たちのざわめきも止まっていた。玉藻と影尾も、息を呑んで見守る。大蛇すら黙り込み、巫女の最期を冷たく見つめた。
....
どうして、いなくなる?
鬼は歯が鳴るほど強く噛みしぎり、顔を伏せた。
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