第四章

捨てた名






 …



 ……──



 ………───





 其れは──八百年前の、鬼界。



 冷たく重い、黒い霧



 その霧が一面に立ち込める森に、ひとつの御堂があった。



 とうの昔に使い手を失い、朽ち始めた御堂。



 その中には、四方から伸びる太い鎖があり、錆びた鉄のきしみを響かせ、中心で交錯していた。



『 ──… 』



 鎖の中心には……ひとりの少年が吊られていた。



 鎖は彼の腕と胴を締め付け、身体を宙に浮かせ、自由を奪っている。



 少年の生成(キナリ)色の長髪は、傷だらけの身体に絡みつき、血が滲んだ跡を隠して垂れていた。白い肌は切り傷や打撲で赤黒く染まり、血が滴って床に小さな溜まりを作る。



『 災いの元凶を殺せ! 』


『 その魂を、永久に鬼界から追放しろ! 』



 御堂の外では、キィキィと甲高い怒号が飛び交う。無数のモノノ怪の声が、怨嗟と憎悪に満ちて重なり合い、黒い霧を震わせた。




 ギィィィィ....




 そんな中──御堂の扉が、軋む音を立てて開く。




『 他の呪いは、境界の中に閉じ込めた 』



『 ──… 』



『 後は……お前だけ、だ 』




 暗闇から現れたのは銀髪の少年だった。



 鋭い黄金の瞳が、霧の中で光り、口元は固く結ばれている。




『 ……僕だけ、か 』



『 ああ 』



『 悪ぃね 』




 鎖に繋がれた少年が

 不意に、八重歯をむき出して笑った。



 傷だらけの顔に、不釣り合いな陽気さ──。



 それを見た銀髪の少年の顔が、逆に悲しみに歪んだ。唇がわずかに震えていた。




『 ……泣きそうな 顔 』



『 ……っ 』



『 するんだ…ね、君も 』



『 お前が馬鹿だからだ 』



『 …………ああ、そうだよね 』




 鎖に吊られた少年が目を閉じる。



 長い睫毛が、血と汗で濡れた頬に影を落とす。ふぅ……と、弱々しい息を吐き、彼は静かに呟いた。




『 なぁ、最後に、いいかな 』




 その声は、風に消えゆく炎のごとく儚い。銀髪の少年がわずかに身を固くする。




『 君には…僕を、探してほしくない 』



『 …… 』



『 だから‥‥さ‥‥! 』



『 それなら名を捨てるべきだ。それを知っている俺には、お前の居場所がわかってしまう 』



『 そう…だね、‥‥‥名を、捨てよう。もういらない 』




 額に走る傷から、ツーーと血が垂れ落ち、まるで涙のように御堂の床に滴った。



 黒い霧がその血を飲み込み、床に血溜まりが広がる。




『 安心しろ 』




 銀髪の少年が一歩前に出た。



 利き手を構え、鋭い爪が哀しく光る。霧が彼の周囲で揺れ、別れを惜しみ…まとわりついた。



 そして彼は言った。





『 俺も共に名を捨ててやる 』




『 ‥‥‥‥! 』




『 名など不要な、鬼の王になってやる。お前をのぞいて、誰のひとりも…──俺の名を呼べぬように 』





 その言葉を耳にして、鎖に吊られた少年はかすかに微笑む。





『 それは‥‥君が‥‥孤独、だよ‥‥‥ 』





 御堂の外の怒号が一瞬静まり、重く沈む。



 銀髪の少年の爪が、ゆっくりと振り上げられた。



 次の瞬間、鎖の軋む音と血の滴る音だけが…朽ちた御堂に鳴っていた。











 ……



 ──…



 ───……










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