呪いの侵食




 ──…




 身体が……熱い




「‥‥‥ぅ」



 巫女の意識は、熱と重だるさに包まれ、ぼんやりと揺れていた。


 身体の芯に残る火照りは、まるで夢の続きのようにして彼女を苛む。


(あの夢……あまりにも生々しくて……)


 鬼の熱い眼差しが、彼女の心と身体にまだ焼き付いている。


「……ふ、ぅ……ハァ……」


 ゆっくりと目を開けると、巫女は柔らかな寝具に寝かされていた。


 薄絹の几帳が四方を囲み、透ける光が淡い影を揺らしている。近くの香炉から漂う沈香の甘い香りが、鼻腔をくすぐり、意識を少しずつ引き戻す。


 ここが何処かも定かでないまま身体を起こすと、厚い布団が滑り落ちた。


(これは、たしかあの人がわたしに用意した寝具……?)


 巫女は辺りを見回し、記憶をたどった。


 ここは鬼の屋敷の…ように見える。静かで荘厳な空間。


 そこに寝ていた自分は、身体が酷く重い。熱がこもり、頭がズキズキと疼いている。風邪だろうか。冬の池に落ちたのだから無理もない。


 ズキッ……!


「う……っ」


 思い起こそうとすると頭に鋭い痛みが走った。


 記憶が混乱し、断片的に蘇る。


 冷たく深い池の水

 冬の凍える水の中──死の縁を見た。


 そして意識が遠のく中、鬼の顔を思い浮かべたのだ。


(そして、わたしはあの人の夢を……)


 熱い舌と眼差しで身体の芯を溶かされそうな、生々しい夢。あの感覚が、身体の熱として今も残っている気がした。


(では、ここは?)


 巫女は几帳をそっとめくり、広間を見渡した。


 戸が半分開いた向こうから、穏やかな風が吹き込む。人界は冬だったのに、ここはどう見ても違うのだ。


 池に落ちた時は裸だった姿も、今は漆黒の上衣をまとっている。


 ゆったりとした衣は彼女の華奢な身体には大きすぎ、足先まで覆い、胴も袖もぶかぶかだ。


「この匂い……」


 巫女は胸元に鼻を近づけた。甘さの中…ほのかに野性味のある香りが漂う。


 鬼が自分の着物を彼女に着せたのだろう。


 その匂いに、彼の存在が鮮明に蘇り、胸が締め付けられるような感覚が走った。


(何故?わたしは境界に戻ってきている…?)


 それでは鬼に抱かれたのも夢ではないというのか。


 巫女が信じられないでいた、その時


「巫女!!」


 突然声がして、彼女の心臓が跳ねた。


「……!?」


「巫女! おらぬのか!?」


 唐突に、外から誰かが彼女を呼んだ。


(わたしを呼んでいるの……?)


 風邪で熱のある身体は重く、フラリとした足取りで、巫女は屋敷の外へ顔を出した。縁側の木の感触が、裸足の足裏にあたる。


「わたしはっ……巫女はここに」


 縁側に出て声の主を探した。


 すると屋根の上から転がるようにして小さな影が現れ、巫女の目の前で止まった。


「……っ」


「兄が大変なのじゃ!」


 小さな身体が、勢いよく巫女の腰に抱きつく。


「…っ…あ、あなたは?」


 そして巫女を見上げてきたのは、小麦色の髪をした少女だった。


 大きな瞳は涙で潤み、頭の獣耳がピクピクと動く。彼女の小さな手が巫女の黒衣をぎゅっと掴んでいた。


(モノノ怪の女の子っ……?)


 少女はモノノ怪だ。その必死な表情に巫女は動揺する。少女は歯を剥き出して叫んだ。


「わらわの兄が大変なのじゃ! 今っ…鬼界では…っ」


 モノノ怪の兄妹。記憶の断片が、巫女の頭にひらめく。


「もしや──あなたは玉藻(タマモ)なのですか?」


「そうじゃ」


 少女の正体は、以前この屋敷で出会った狐の兄妹、影尾(カゲオ)の妹、玉藻(タマモ)だったのだ。


「落ちついて! あなたのお兄さん──影尾はどうしたのですか?」


 巫女は少女の肩に手を置き、落ち着かせようとした。


「──…呪いじゃ!」


 玉藻の声に、切迫した響きが宿る。


「呪い?」


「鬼界を呪いが侵食しておる…! 影尾も襲われてっ……苦しんどる。どうすればいいか教えてくれ!」


 その言葉に、巫女の顔が青ざめた。


「……!」


 " 呪い "


 それは法力や霊力、妖力とは異なる、得体の知れない現象。


 不明な点は多いが、ただひとつだけ確かなのは…


 《 呪いは人間から生まれる 》


 ということだ。


(鬼界に人はいない。なのにどうして? どこから呪いが?)


 焦せるに従い、頭の痛みが巫女の思考をさらに乱した。


「わらわは森で呪いに襲われたんじゃ。そのとき怪我した足は、巫女、おぬしが治してくれた。そのあと影尾は呪いの元凶を探しに行って…っ」


「玉藻っ…教えてください。侵食とは? いったいどれほどの規模で広がっているのですか?」


 玉藻の表情がさらに暗くなり、涙が頬を伝う。


「森にあった狐の村は……ぜんぶ呑まれた。呪われたモノノ怪の数は五百をこえとる。そいつらが周りを襲うから、鬼王さまが戦っておるんじゃ!」


「そん、な…!」


 その規模の深刻さに、巫女の顔がさらに青ざめた。


 心臓が早鐘を打ち、熱で重い身体が震えた。


「呪われた者を殺せばっ…呪いは広がります! 呪いに立ち向かうのは悪手です!」


 巫女の声が、屋敷の広間に響く。玉藻が涙を堪え、必死に頷く。


「鬼界に浄化の力を持つ者はいないのですか!?」


「おるわけなかろう…っ」


 玉藻が泣き崩れ、巫女の黒衣にすがりつく。


 彼女はモノノ怪だが、今の巫女には、悲しみにくれる人間の少女と何ひとつ変わらない。


 その小さな震える姿に、巫女の心が強く動いた。


(──守らなければ)


 巫女は鬼が着せた黒衣の衿をぎゅっと掴んだ。鬼の匂いが、彼女の決意を後押しする。


(あなたも戦っているのだから……!)


 巫女は決意を固めて、玉藻に言った。



「わたしが向かいます」



 その言葉に、玉藻が驚いて顔を上げた。


「ぇ……?」


 巫女は繰り返した、声に力を込めて。


「わたしが鬼界へ行き呪いを浄化します。その為には神器が必要です」


 彼女は屋敷の中へ引き返す。熱でふらつく足取りを、意志の力で支える。


「そ、それはダメじゃ!」


 玉藻が慌てて追い、巫女の袖を掴もうとした。


 地下への階段を降りる巫女の背中に、必死の声が響く。


「おぬしら人間は鬼界にはいれぬ! 妖気にあたってすぐに死ぬ!わしはっ…影尾を助ける方法を教えてほしくて…っ」


「鬼王が言うにはわたしには妖気の耐性があるようです。…少しは時間を稼げるでしょう」


 巫女の声は静かだが、揺るぎない。


「少しばかり耐性があろうと、おぬしにとって猛毒じゃぞ!?」


「……ええ、わかっています」


 玉藻の反対をものともせずに地下の一室に入った巫女の前には、天哭ノ鏡(テンコク ノ カガミ)が祀られていた。


 今の鏡は人界を映しておらず、星屑のような光をまとっていた。


 巫女はそれを手に取る。



(あなたの大切な物を武器として使う事、…どうか、許してください)



 心の中で鬼に謝罪する


 そして深い呼吸をしたその直後──


 巫女の周りに光り輝く霊気が放出された。



「‥‥‥ッッ」



 白く眩い光が、地下の闇を切り裂き、壁から床までを全て照らす。まるで神の息吹が彼女を包むように、霊気が渦を巻き、部屋全体を清めた。


 巫女の黒衣が光に揺れ、彼女の瞳が神聖な輝きを宿す。


「なっ、なっ……こ、これ……!」


 後を追って地下に来た玉藻が、呆気にとられて目を大きく見開いた。


「おぬしっ…この力を今までどうやって隠しておった…!?」


「……わたしの霊力は、神からの借り物」


 巫女の声は静かだが、力に満ちていた。


 彼女は天哭ノ鏡を胸に抱き、優しく冷静な目で玉藻を見据えた。


「ですから、他者へ振りかざす強い力は、神器を介してしか使えぬよう誓約をかけていました」


「……!」


「これで呪いを祓えます。鬼界への案内をお願いできますね、玉藻」


 巫女のオーラに圧倒された玉藻は、涙をポロポロと流しながら、ゆっくりと頷いた。






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